終戦の日
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内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、14日の夕方に閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜に昭和天皇による玉音放送が録音された。夕方に加瀬スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。

阿南陸相は御前会議の直後に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた。しかし15日未明に、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍軍人らにより、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生、森赳近衛師団長が殺害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件)など、ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きていた。午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。[要出典]

8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもって改めてポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、戦闘行為は停止された[5]。昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのは初めてのことであった。

日本においてもポツダム宣言の受諾により降伏したということは一般に広く知られているものの、「無条件降伏」という言葉が実質的に無条件降伏同様のものであったという意味であるのか、ポツダム宣言を無条件受諾したという意味であるのか、曖昧に使われている。早稲田大学教授の有馬哲夫は、一部マスコミが主張するような「日本が無条件降伏した」という言葉は間違いで、日本はドイツのような軍と政府を含む無条件降伏ではなく、政府が「ポツダム宣言」での英米中ソの連合国側の諸条件を受諾した上での降伏であったと指摘している[6]

公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、8月15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。同作戦でスーパーマリン シーファイア零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉が無事パラシュート降下し陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。

8月9日のソ連の日本に対する宣戦布告によるソ連軍の日本進攻は、8月15日正午以降も第5方面軍の南樺太死守命令により南樺太の第88師団がソ連軍進駐を拒否したことで、8月22日の停戦交渉成立まで武力攻撃として続き、その後は9月2日の日本との降伏文書調印後も平和的進駐として千島諸島各島への進出が続くこととなった。

南樺太、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。満州で逃げ遅れた日本人開拓民らは混乱の中で生き別れ、のちに中国残留孤児問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲に加えて、日本領土の南樺太、北千島択捉国後色丹歯舞朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日にすべての進軍を終了した。
法律

引揚者給付金等支給法(昭和32年[1957年]法律第109号)は8月15日を終戦の基準とし、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和42年[1967年]法律第114号)は8月15日を「終戦日」(しゅうせんび)と呼んでいる。

1963年5月14日の閣議決定第2次池田第2次改造内閣)により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年から東京都千代田区日本武道館で開催された。1982年4月13日に、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された(鈴木善幸改造内閣)。「戦没者を追悼し平和を祈念する日」について(昭和57年[1982年]4月13日閣議決定):鈴木善幸改造内閣
趣氏B先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を設ける。

期日 毎年8月15日とする。

行事 政府は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に、昭和38年[1963年]以降毎年実施している全国戦没者追悼式を別紙のとおり引き続き実施する。

別紙 全国戦没者追悼式の実施について
全国戦没者追悼式は、天皇皇后両陛下の御臨席を仰いで、毎年8月15日日本武道館において実施する。

本式典における戦没者の範囲及び式典の形式は、昭和56年(1981年)の式典と同様とする。

本式典には、全国から遺族代表を国費により参列させる。

式典当日は、官衙等国立の施設には半旗を掲げることとし、地方公共団体等に対しても同様の措置をとるよう勧奨するとともに、本式典中の一定時刻において、全国民が一斉に黙とうするよう勧奨する。


全国高等学校野球選手権大会の会場でも、正午の時報直前にプレーを中断し、選手・観客らが30秒間の黙祷を捧げる(この時はサイレンが30秒間にわたって鳴らされるようになる)。3試合の開催となった2010年は正午時点で1試合目と2試合目の間のグラウンド整備が行われており、12時10分のプレイボール直前に黙祷が行われた。同じように、3試合開催となった2014年は正午の時点で2010年と同様、試合間グラウンド整備が行われていたため、12時15分に行われた。2017年は悪天候、2019年は台風10号の影響で3試合目4試合が順延、2023年は台風7号の影響で第10日全4試合が順延[7]された為、球場での黙祷は行われなかった。

地上戦が行われた沖縄県では、6月23日に組織的な日本軍の抵抗が終結した。このため、現在、沖縄県では6月23日を慰霊の日として休日としている。アメリカ軍による正式な沖縄戦の終結宣言は7月2日であるが、沖縄県征服は6月30日と記録している。しかし、その後も日本軍による抵抗は続いた。9月7日、南西諸島守備軍代表は、嘉手納の米軍第10軍司令部で降伏調印し、沖縄戦は公式に終結した。このため、沖縄県の公式慰霊施設である平和の礎では、沖縄戦終結の日を9月7日としている。
学校教科書

小学校社会科教科書や中学校社会科教科書(歴史分野)の多くは、終戦の日を8月15日と記し、9月2日については言及していないものもある。サンフランシスコ講和条約については、締結日の1951年9月8日について言及しているが、発効日の1952年4月28日に言及していないものもある。

高等学校日本史教科書の多くは、終戦の日を9月2日としている。8月15日は「戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日」と記されているものが多い。例えば、山川出版社の『詳説日本史』では、以下の記述となっている。昭和天皇のいわゆる「聖断」によりポツダム宣言受諾が決定され、8月14日、政府はこれを連合国側に通告した。8月15日正午、天皇のラジオ放送で戦争終結が全国民に発表された。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府及び軍代表が降伏文書に署名して、4年にわたった太平洋戦争は終了した。 ? 詳説日本史 笹山晴生白石太一郎佐藤信坂上康俊石井進五味文彦・桜井英治・高埜利彦・吉田伸之・坂野潤治・鈴木淳・加藤陽子/著 山川出版社 2002年4月4日文部科学省検定済 345ページ
忘れてはならない4つの日

上皇陛下明仁沖縄慰霊の日(6月23日)・広島原爆の日(8月6日)・長崎原爆の日(8月9日)・終戦記念日(8月15日)を「忘れてはならない日」として挙げ、宮内庁ホームページで「忘れてはならない4つの日」として掲載している[8][9]
備考

テレビ・ドキュメンタリー番組等で度々使われる「終戦を祝う世界の人々」の映像の多くは、8月11日に撮影されたものだという。この日に大日本帝国政府は「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を打電したことが流され、正式な降伏と錯覚した人々が騒いだのが真相のようである。当時中立国だったスウェーデンに避難していた日本人特派員・衣奈多喜男の回想記[10]によると、8月10日に日本がポツダム宣言受託し、降伏する旨の報道があり、日本大使館からも同様の声明があったという。実際には停戦命令はなかった。
各国

先に述べたように第二次世界大戦終結の日の認識は国によって異なっており、日本では8月15日を終戦の日としている[1]


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