細川宗孝
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

板倉家臣の逆恨みを回避するため、また浅野家と絶縁状態だった大恩人の伊達家に配慮し[4]、細川綱利が「屋敷の名所として保存せよ」とした[5]赤穂義士の遺髪を頂いて建造した墓と遺構(畳三枚、屏風、風雨除け、脇差台、供養施設など)が処分された[6][7]
系譜

父:
細川宣紀(1676年 - 1732年)

母:際 - 鳥井氏

正室:友姫 - 徳川宗直の四女

養子

男子:細川重賢(1721年 - 1785年) - 細川宣紀の五男


脚注[脚注の使い方]^ 『大名細川家の至宝 文武の歴史と雅の文化・永青文庫名品展』(編:山梨県立美術館)掲載系図より。
^家紋World - 細川七つ紋
^ 大谷木醇堂『醇堂叢稿』、『旗本御家人』 200?210頁。
^ 正徳2年(1712年)11月、伊達吉村に幕閣が浅野家との和解を打診したが拒絶された。伊達宗村は吉村の子である。
^ 毛利家(部屋をくぎ付けにした)と久松家(脇差を腹に当てない前に首をはねた)は赤穂浪士を罪人として冷遇したが、細川家は浪士を厚遇したと伝わる。「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と当時の狂歌が残る。
^ 現在は墓の台座部分(四角い芝台石) と供養塔の残滓(角が丸くなった石)と思われる石の集まりが残る。また破壊された遺構も出土している。
^ 平成10年(1998年)に中央義士会と東京都教育委員会の有志により「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑が設置された。

参考史料

家紋についてのコラム1
- ウェイバックマシン(2005年6月12日アーカイブ分) - 家紋ネット










肥後細川家7代当主
宗家

義季

俊氏

公頼

和氏

清氏

正氏 | 没落

京兆家(事実上の宗家)

頼春

頼之

頼元

満元

持元

持之

勝元

政元

澄之

澄元

高国

稙国

道永(高国・再承)

晴元

昭元(信良)

元勝

義元

宣元

忠元

孚元

昌元

分家・支流
典厩家

持賢

政国

政賢

尹賢

氏綱

藤賢

元賢

重賢

乗賢

野州家

満国

持春

教春

政春

晴国

通政(輝政)

通薫

元通

元薫

広通

元純

広氏

敬前

義弘

義邵

頼彬

宮遠



讃州家

詮春

義之

満久

持常

成之

政之

義春

之持

氏之

真之 | 断絶

和泉上守護家
長岡刑部家
細川興増男爵家

頼有

頼長

持有

教春


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:25 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef