[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

史書に残された記録では『後漢書』で、105年蔡倫が樹皮やアサのぼろ、漁網などを使って紙を作り和帝に献上したという内容の記述がある[22]。蔡倫による紙は「蔡侯紙」として用いられるようになったことから、蔡倫は実用性のある紙の製造法を確立した人物という説が一般的である[22]西晋の時代(3世紀)には、左思の『三都賦』を写すために紙の価格が高騰したという記録が『晋書』に記載されており、「洛陽の紙価を高からしむ」という故事成語になっている。

紙はその後も改良され、時代(8世紀)には樹皮を主原料とした紙や、竹や藁を原料として混ぜた紙が作られるようになった。の時代(10世紀以降)には、出版が盛んとなったため大量の紙が必要となり、竹紙が盛んに作られた。明末の1637年に刊行された『天工開物』には、製紙の項目で、竹紙と樹皮を原料とした紙の製法を取り上げている。

紙は羊皮紙や絹に比べれば安かったが、それでも上流階級を中心に広く使われる高価なものであった。11世紀の詩人であった蘇舜欽は、自分が勤めていた役所で出た反古紙(書き損じの使い物にならない紙)を売って、その代金で宴会を開いたために横領で糾弾されている。反古紙であっても高値で取引されていた様子がうかがえる。清の雍正帝(第5代皇帝)は質素・倹約を掲げていたので、重要な公文書などでない限り、紙は裏返して使うように勧めていた。
日本への伝播

製紙技術は中国から7世紀までに伝えられた。この技術が改良され、「和紙」となった。

布・楮・三椏・麻・梶・桑・雁皮など、材料は色々工夫され、用途に合わせて様々な品質の紙が製造された。しかし日本においても紙は高価であり、ゆえに日本各地の特産物として生産された。一方、紙の再利用も行われており、使用後に裏紙部分に再度筆記(紙背文書)したり、漉き直しつまりリサイクルして使用された。漉直しの紙は「漉返紙(宿紙、紙屋紙)」と呼ばれた。朝廷では図書寮紙屋院でこの作業が行われており、このリサイクル紙は朝廷の正規の文書でも略式命令(綸旨など)などの場合には使用された。

欧州から「洋紙」が入ってくるのは安土桃山時代以降、洋紙の本格的な製造は明治時代以降となる。
イスラム世界への伝播

紙の製法が中国からイスラム世界に伝わった契機は751年タラス河畔の戦いで、アッバース朝軍に捕えられたの捕虜に紙職人がいたことである。サマルカンドでは、757年に製紙工場が造られた。イスラム世界では紙の原料となる植物が存在しなかったため、紙の原料として亜麻を使ったり、サイズ剤として小麦粉から作ったデンプンを使うなどの工夫がされた。こうした紙はイスラム世界で広く知られるようになった。

その後、バグダッドダマスカスカイロフェズなどイスラム世界の各都市に製紙工場が造られ、その技術は1100年にはモロッコまで伝わった[3]。紙は、イスラム世界で主要な筆記媒体となり、ヨーロッパへも輸出された。1144年には、当時タイファ(イスラム諸王国)の支配下にあったイベリア半島シャティヴァに、ヨーロッパ初の製紙工場が造られた。
ヨーロッパへの伝播グユクのインノケンティウス4世宛国書

モンゴル帝国皇帝グユクが、教皇庁使節プラノ・カルピニに持たせ、ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた国書(降伏勧告の通達文)が残っている。これが歴史上、ローマ法王が最初に触れた紙だとされている。

ただし、遡る1102年にはシチリアに(シチリアの征服(1061年-1091年)完了後間もない頃)、1189年にはフランスエロー[3]1276年にはイタリアファブリアーノで製紙工場(Paper mill)が造られた。これ以降14世紀までの間、ヨーロッパでの紙の供給地は、イタリアとなった。1282年には、ファブリアーノで透かしイタリア語: Filigrana)が発明されている。

その後、製紙工場はヨーロッパ各地で造られ、アメリカでも1690年フィラデルフィアに設立されている。フィラデルフィアの建設は1682年に始まったばかりであった。
印刷技術の確立と原料不足

1450年ごろにグーテンベルクにより活版印刷が実用化されると、印刷物が大量に造られるようになった。1473年には機械で印刷された楽譜が初めて登場した。1488年にはイタリアのソンチーノに作られた印刷所"Casa degli Stampatori"(it:Soncino#Musei)でヘブライ語聖書タナハ旧約聖書)が印刷された。こうして印刷物が世界中に広がり、紙の需要は増大した一方で、慢性的な紙の原料不足を引き起こし始めた。
製紙工業の確立

ユグノー戦争1562年 - 1598年)の終わりに、アンリ4世ナントの勅令1598年)を発したことで、多くのユグノーがフランスから亡命した。特にオーヴェルニュアングモアのユグノーが亡命したことは、フランス製の紙を輸入していたイギリス・オランダにも大きな影響を与え、ヨーロッパでは製紙の機械化が進められた。叩解(英語: beating process)には、紙の製法がヨーロッパに伝播した時点から、水車を動力源に石臼を動かすスタンパー英語: stamp mills)が使われており、1680年にはより効率的なホランダー(オランダ語版、ドイツ語版、英語版)(オランダ語: maalbak または オランダ語: Hollander)が発明された。連続型抄紙機は、1798年にはフランスのエンジニアルイ=ニコラ・ロベール(フランス語版、英語版)(発明家ロベール兄弟は別人)によって小型模型が作られ、1826年にイギリスのエンジニアブライアン・ドンキン(英語版)が完成させた。

一方、紙の原料不足については、特に19世紀には大きな問題となった。当時、紙の主原料は亜麻や木綿のぼろであったが、木材を使うことで解決された。1719年にフランスのルネ・レオミュールフランス語: Rene Antoine Ferchault de Reaumur)は、スズメバチが木材をかみ砕いて巣を作っている様子を観察した結果として、木材から紙を作ることができるという内容の論文を発表した。ドイツのフリードリッヒ・ケラー(ドイツ語版、英語版)(1840年)とカナダのCharles Fenerty(1844年)は砕木パルプを作るためのグラインダーを考案し、グラインダーは1846年に実用化された。また、1851年には苛性ソーダを用いた化学パルプの製造がイギリスで成功し、1854年に実用化した。当時、木材には針葉樹の丸太が使用された。尚、当時はまだ紙は貴重であった。

1844年、イギリスでピール銀行条例によってイングランド銀行中央銀行として銀行券スターリング・ポンド紙幣」の発券を独占した(通貨学派銀行学派)。贋金偽造防止技術として従来の透かし以外の技術が開発され始めた。

20世紀にかけて砕木パルプ・化学パルプともに改良が加えられ、木材を原料とした紙が機械で大量生産されるようになった。1940年代以降、クラフトパルプ製造法が確立され、広葉樹を利用できるようになった。また、1960年には木材チップをパルプ化する方法が開発された。
製紙用薬品の普及

1970年ごろから、酸性紙は50年を超えるような長期保存ができないことが問題となり、硫酸バンドロジンサイズ剤を使わず、石油を原料とした中性サイズ剤を使う方法が考案された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:110 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef