紙はその後も改良され、唐時代(8世紀)には樹皮を主原料とした紙や、竹や藁を原料として混ぜた紙が作られるようになった。宋や明の時代(10世紀以降)には、出版が盛んとなったため大量の紙が必要となり、竹紙が盛んに作られた。明末の1637年に刊行された『天工開物』には、製紙の項目で、竹紙と樹皮を原料とした紙の製法を取り上げている。
紙は羊皮紙や絹に比べれば安かったが、それでも上流階級を中心に広く使われる高価なものであった。11世紀の詩人であった蘇舜欽は、自分が勤めていた役所で出た反古紙(書き損じの使い物にならない紙)を売って、その代金で宴会を開いたために横領で糾弾されている。反古紙であっても高値で取引されていた様子がうかがえる。清の雍正帝(第5代皇帝)は質素・倹約を掲げていたので、重要な公文書などでない限り、紙は裏返して使うように勧めていた。 製紙技術は中国から7世紀までに伝えられた。この技術が改良され、「和紙」となった。 布・楮・三椏・麻・梶・桑・雁皮など、材料は色々工夫され、用途に合わせて様々な品質の紙が製造された。しかし日本においても紙は高価であり、ゆえに日本各地の特産物として生産された。一方、紙の再利用も行われており、使用後に裏紙部分に再度筆記(紙背文書)したり、漉き直しつまりリサイクルして使用された。漉直しの紙は「漉返紙(宿紙、紙屋紙)」と呼ばれた。朝廷では図書寮紙屋院でこの作業が行われており、このリサイクル紙は朝廷の正規の文書でも略式命令(綸旨など)などの場合には使用された。 欧州から「洋紙」が入ってくるのは安土桃山時代以降、洋紙の本格的な製造は明治時代以降となる。 紙の製法が中国からイスラム世界に伝わった契機は751年のタラス河畔の戦いで、アッバース朝軍に捕えられた唐の捕虜に紙職人がいたことである。サマルカンドでは、757年に製紙工場が造られた。イスラム世界では紙の原料となる植物が存在しなかったため、紙の原料として亜麻を使ったり、サイズ剤として小麦粉から作ったデンプンを使うなどの工夫がされた。こうした紙はイスラム世界で広く知られるようになった。 その後、バグダッド・ダマスカス・カイロ・フェズなどイスラム世界の各都市に製紙工場が造られ、その技術は1100年にはモロッコまで伝わった[3]。紙は、イスラム世界で主要な筆記媒体となり、ヨーロッパへも輸出された。1144年には、当時タイファ(イスラム諸王国)の支配下にあったイベリア半島のシャティヴァに、ヨーロッパ初の製紙工場が造られた。 モンゴル帝国皇帝グユクが、教皇庁使節のプラノ・カルピニに持たせ、ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた国書(降伏勧告の通達文)が残っている。これが歴史上、ローマ法王が最初に触れた紙だとされている。 ただし、遡る1102年にはシチリアに(シチリアの征服(1061年-1091年)完了後間もない頃)、1189年にはフランスのエローで[3]、1276年にはイタリアのファブリアーノで製紙工場(Paper mill その後、製紙工場はヨーロッパ各地で造られ、アメリカでも1690年にフィラデルフィアに設立されている。フィラデルフィアの建設は1682年に始まったばかりであった。 1450年ごろにグーテンベルクにより活版印刷が実用化されると、印刷物が大量に造られるようになった。1473年には機械で印刷された楽譜が初めて登場した。1488年にはイタリアのソンチーノに作られた印刷所"Casa degli Stampatori"(it:Soncino#Musei ユグノー戦争(1562年 - 1598年)の終わりに、アンリ4世がナントの勅令(1598年)を発したことで、多くのユグノーがフランスから亡命した。特にオーヴェルニュやアングモアのユグノーが亡命したことは、フランス製の紙を輸入していたイギリス・オランダにも大きな影響を与え、ヨーロッパでは製紙の機械化が進められた。叩解(英語: beating process)には、紙の製法がヨーロッパに伝播した時点から、水車を動力源に石臼を動かすスタンパー(英語: stamp mills)が使われており、1680年にはより効率的なホランダー
日本への伝播
イスラム世界への伝播
ヨーロッパへの伝播グユクのインノケンティウス4世宛国書
印刷技術の確立と原料不足
製紙工業の確立
一方、紙の原料不足については、特に19世紀には大きな問題となった。当時、紙の主原料は亜麻や木綿のぼろであったが、木材を使うことで解決された。1719年にフランスのルネ・レオミュール(フランス語: Rene Antoine Ferchault de Reaumur)は、スズメバチが木材をかみ砕いて巣を作っている様子を観察した結果として、木材から紙を作ることができるという内容の論文を発表した。ドイツのフリードリッヒ・ケラー(ドイツ語版、英語版)(1840年)とカナダのCharles Fenerty(1844年)は砕木パルプを作るためのグラインダーを考案し、グラインダーは1846年に実用化された。また、1851年には苛性ソーダを用いた化学パルプの製造がイギリスで成功し、1854年に実用化した。当時、木材には針葉樹の丸太が使用された。尚、当時はまだ紙は貴重であった。
1844年、イギリスでピール銀行条例によってイングランド銀行が中央銀行として銀行券「スターリング・ポンド紙幣」の発券を独占した(通貨学派対銀行学派)。贋金の偽造防止技術として従来の透かし以外の技術が開発され始めた。
20世紀にかけて砕木パルプ・化学パルプともに改良が加えられ、木材を原料とした紙が機械で大量生産されるようになった。1940年代以降、クラフトパルプ製造法が確立され、広葉樹を利用できるようになった。また、1960年には木材チップをパルプ化する方法が開発された。 1970年ごろから、酸性紙は50年を超えるような長期保存ができないことが問題となり、硫酸バンドやロジン系サイズ剤を使わず、石油を原料とした中性サイズ剤を使う方法が考案された。
製紙用薬品の普及