純_(映画)
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倉本聰の親友・中島貞夫に倉本を紹介してもらい[5]、白井と倉本は脚本を贈呈する形をとり[9]、倉本の了解を得て倉本脚本をベースに横山が一人でシナリオを書いた[19][23][24]。映画監督は脚本を書けなくてはダメだと諸先輩方から忠告されていた[19]。軍艦島のシークエンスは倉本脚本にはなく、横山が書き加えたもの[25]。横山は「子どもから大人に移る青春の原型を突き詰めた」と話しており[26]、デビュー作が作家としてパーソナリティの発露であることは言うまでもない[27]。映画撮影後のオールラッシュの段階で横山と倉本が揉め[5]、倉本、白井了承の上、脚本クレジットから倉本の名前を外すことになった[9][23]
キャスティング

主役には当初、勝野洋と発表されていた[8]朝加真由美は当時、テレビバラエティのアシスタントでニコニコ笑うだけのイメージだったが[15]、映画初出演・初主演でヌードを披露して評判を呼び[4]ポルノ映画のオファーが殺到した[4]。痴漢される女の一人として花柳幻舟が出演し、花柳が映画公開年の1980年に傷害事件を起こし、たまたま花柳の愛人・羽仁五郎も本作に出演していたことからタイムリーな映画の宣伝になった[24]。その他のキャスティングの詳細は分からないが、中島ゆたか橘麻紀山内恵美子は東映の専属女優で、今井健二は元東映俳優。その他、小松方正安部徹田中小実昌など、横山が所属した東映映画に馴染みの役者が多い。
音楽

劇伴は一柳慧だが、劇中歌として、1977年10月にリリースされたムーンライダーズのアルバム『イスタンブール・マンボ』から「週末の恋人」と「女友達(悲しきセクレタリー)」が使用されている。
撮影

1978年1月から製作に入り[28]、1977年夏から撮影に取り掛かり[29]、少数精鋭のスタッフで東京都内と長崎県軍艦島でオール・ロケーション[28]。1978年4月に映画は完成した[6][29]
興行

映画は完成はしたものの、痴漢を題材にした作品内容から[30]配給を持ち込んだ東宝松竹から「これじゃ商売にならんよ」[26]ATGにも「ウチらしくない」と断られ[26]、配給の引き受け手がなく、日本の映画界から無視され[21][26][31]、そのままお蔵入り[6][32]。この段階では日本で『純』を観たのは200人だけだったという[26]。大手の配給ルートに乗らなければ、自主上映以外に道はなく、上映はホール公民館などになり、強力な支援グループがバックに付いているなら別だが、黒字になることはほぼなかった[33]。横山は「商品価値を下げたくない」と自主上映に逃げず[25]、メジャー映画会社の配給ルートに乗るまで粘り強くパブリシティが利くのを待った[25]。ATGの試写を観た川喜多かしこが「日本ではダメでもフランス人には受けるかも」と横山にカンヌ国際映画祭批評家週間への出品を勧め[26]、川喜多の支援により出品が成され[3]、100本を越える作品の審査で上映される7本の1本に選出[26]1979年の同映画祭の批評家週間オープニング上映された[26]。同年のカンヌ映画祭に出品された日本映画は他に『エーゲ海に捧ぐ』『地獄』『ザ・ウーマン』の三本で[26]パルム・ドールは『地獄の黙示録』だった。この後、ロンドン映画祭ロサンゼルス映画祭でも上映され、1980年8月にはニューヨークで一般公開もされたが[20][34]、日本ではあまり関心が高まらず[20]、肝心の日本公開の目途は立たず[1][6]。1980年9月14日から東京の名画座池袋文芸坐地下で夜一回のみ上映[20]、1980年10月1日から銀座並木座で公開され[1][20]、当時としては名画座で異例の長蛇の列ができ[34]、大ヒットした[24]。この段階で製作費4000万円はほぼ回収できた[19]。それでも全国公開には至らず、横山が古巣である東映岡田茂社長に泣きつき[35]、急遽東映セントラルフィルムが買い上げ[21][35]TCCチェーンに乗り、1980年12月20日から東京新宿東映ホール1を始め、ようやく全国7ヶ所で一斉ロードショー公開された[1][35][36]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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