稲の会では、最初は夏目漱石の『坊つちやん』、ニコライ・ゴーゴリの『鼻』、小林多喜二原作の『蟹工船』などを上演し、都内の労働組合員にチケットを大量に買ってもらい成功を収めるなどしていた[5][9]。その後は、劇団内で納谷のように喜劇などの軽い芝居をやりたいという人物と左翼路線の芝居をしたい人物に分かれたことで、お互いのしたい芝居を交互にするようになったが、約2年後に金の持ち逃げ事件が発生[5][9]。仲間内で思想が分かれ「やっぱり、ぼくの趣味に合わない」と感じていたこともあり、劇団も解散[5][9]。1957年12月に劇団現代劇場に所属した[12][14][22][9]。
1957年、交友のあった熊倉一雄の誘いで『ヒッチコック劇場』の吹き替えに出演[4][5][9]。熊倉は番組のホストであるアルフレッド・ヒッチコックの吹き替えをしており、キャスティングは、熊倉が所属するテアトル・エコーのメンバーがユニットのような形で出演する中で、たまに外部からゲストを呼ぶようなシステムで行っていた。これにより、納谷はゲストとして何回か呼ばれることとなる。そして、熊倉から「おまえ、入れよ」と誘われたことで、1959年1月にテアトル・エコーへ所属した[22][3][23][9]。
テアトル・エコー入団時、テレビ放映の吹き替えで新劇俳優が起用されることが多く、納谷もこうした中で「アテレコ」に多用され、30歳少し前くらいに声優としての活動を開始した[13][24]。最初のアテレコ作品は、テレビ映画『地方検事』の鑑識官役[13][14]。テレビドラマにも出演したが、拘束日数の長さを事務所が嫌がった結果、自然と声の仕事が増えたといい、後に「声の吹き替えのできる俳優が少なかったので、とにかく忙しかった。現場であわせるのは同じ顔ばかりだった」と語っている[24]。また、現場にすれば「メイクも衣装も不要」で手軽な「声の出演」に対する扱いは悪く、当時のギャランティーは通常の70%のレートで不本意だったというが、忙しかったので金は稼げたという[24]。 1985年3月、胃潰瘍で入院し胃腸を半分切除する手術を行う[25]。1990年代には胃癌の摘出手術を行い、それ以降は体力が低下し声も出にくくなったという[6][26]。 2008年4月、舞台公演中に視覚の違和感を覚え、歩行など生活にも支障が出たため検査を受けた結果、脳梗塞が判明。完治が困難との診断を機に、舞台『ルームサービス』で俳優業を引退する[6][18]。同時期に都内から千葉県千葉市に転居し[11]、以降は妻である火野の助力を得て声優業のみ継続していた[18]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキニュースに関連記事があります。
闘病・死去
訃報 納谷悟朗氏 - 声優 『ルパン三世』銭形警部役など
2013年3月5日、慢性呼吸不全のため千葉市内の自宅で死去[11]。83歳没。