1951年、児童劇団東童の主宰者・宮津博[21]による『東童名作劇選集[注釈 1]』が兄が勤める出版社から出版されることになったのが縁となり、同年12月に大学を中退[3][5][9]。児童劇団東童に入団した[14][19][22]。役者デビューは、舞台『宝島』[12]。その後は『白雪姫』『ピーターパン』『シンデレラ』など児童劇の舞台へ立ち、全国を巡演していた[5]。
1952年、23歳の時に、初めてNHKのラジオ『青少年の時間』に出演[5][9]。当時、同番組では東童の先輩が皆レギュラーで出演しており、研究生だった納谷も参加するようになった[9]。本人いわく、最初は「不良少年かなんかの役」で出演[9]。1度きりの出番のはずが、その不良少年が更生していくという話になったため、これが初のレギュラー出演となった[9]。
その後、民放のラジオ局への出演回数が急激に増えはじめ、宮津が開局したばかりの日本テレビの顧問に就任してからは、他の東童のメンバーと共に劇団ぐるみで同局へ出演する機会が多くなった[5]。この頃、日本テレビで大道具係だった熊倉一雄と知り合い、意気投合したことで交友関係が生まれたという[5]。
1955年3月、児童劇に限界を感じたことから東童を退団し、同年4月に劇団「稲の会」設立に参画[9][14][19][22]。昔から笑いのある芝居が好きだったため、この頃から喜劇を志望するようになったという[9]。
稲の会では、最初は夏目漱石の『坊つちやん』、ニコライ・ゴーゴリの『鼻』、小林多喜二原作の『蟹工船』などを上演し、都内の労働組合員にチケットを大量に買ってもらい成功を収めるなどしていた[5][9]。その後は、劇団内で納谷のように喜劇などの軽い芝居をやりたいという人物と左翼路線の芝居をしたい人物に分かれたことで、お互いのしたい芝居を交互にするようになったが、約2年後に金の持ち逃げ事件が発生[5][9]。仲間内で思想が分かれ「やっぱり、ぼくの趣味に合わない」と感じていたこともあり、劇団も解散[5][9]。1957年12月に劇団現代劇場に所属した[12][14][22][9]。
1957年、交友のあった熊倉一雄の誘いで『ヒッチコック劇場』の吹き替えに出演[4][5][9]。熊倉は番組のホストであるアルフレッド・ヒッチコックの吹き替えをしており、キャスティングは、熊倉が所属するテアトル・エコーのメンバーがユニットのような形で出演する中で、たまに外部からゲストを呼ぶようなシステムで行っていた。これにより、納谷はゲストとして何回か呼ばれることとなる。そして、熊倉から「おまえ、入れよ」と誘われたことで、1959年1月にテアトル・エコーへ所属した[22][3][23][9]。