弟は俳優・声優の納谷六朗[3][5][9]、妻は女優・声優の火野カチ子[18]。 北海道函館市出身[3][4]。父は函館太洋倶楽部に所属する利き酒師だった[5]。4歳の頃、東京府東京市杉並区永福町(現:東京都杉並区永福)へ移住する[5]。 勉強嫌いだったこともあり、中学校には進学せず小学校高等科の2年に進学[5]。戦時中は高等科の1年終了後、陸軍技術研究所で傭いとして就職[5]。その後は周囲の勧めで日本大学附属の工業高等学校機械科夜間部に通っていたが、勉学が身が入らず、東京都中央区月島の商業学校に転校した[5]。 15歳頃に特攻隊へ入隊。終戦後は毎日新聞の運動部で子供さん(給仕)のアルバイトを経て、知人の営む京都府のスポーツ屋に住み込みで働きながら旧制中学校へ通う生活を送る[5][19]。 立命館大学法学部[4][12]に進学した際、演劇部から共通語(東京弁)の方言指導を頼まれたことがきっかけで芝居の面白さを知り、後に舞台演出や出演もするようになる[4][19][20]。 1951年、児童劇団東童の主宰者・宮津博[21]による『東童名作劇選集[注釈 1]』が兄が勤める出版社から出版されることになったのが縁となり、同年12月に大学を中退[3][5][9]。児童劇団東童に入団した[14][19][22]。役者デビューは、舞台『宝島』[12]。その後は『白雪姫』『ピーターパン』『シンデレラ』など児童劇の舞台へ立ち、全国を巡演していた[5]。 1952年、23歳の時に、初めてNHKのラジオ『青少年の時間』に出演[5][9]。当時、同番組では東童の先輩が皆レギュラーで出演しており、研究生だった納谷も参加するようになった[9]。本人いわく、最初は「不良少年かなんかの役」で出演[9]。
生涯
生い立ち
キャリア