紅の豚
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1990年11月から製作が開始され1991年8月に完成する予定だったが、『おもひでぽろぽろ』の制作が遅れ、1991年3月に宮崎駿1人で準備斑を立ち上げる形でスタートすることとなった[10]。宮崎はこの間に『おもひでぽろぽろ』の製作プロデューサーを務めながら『紅の豚』のコンテを切っていたが[14]、当時勃発した湾岸戦争の影響もあり、ストーリーは当初の能天気な航空活劇とは異なるものとなっていき、当初の時間に収まりきらなくなっていった[10]。そこで鈴木敏夫プロデューサーは日本航空と日本テレビに直談判し、ビデオ用作品を改め映画とする許可を取り付けた[10]。同年5月にはメインスタッフが入り今回は女性スタッフが主流の作品となった。その間に「宮崎作品なら」と東宝徳間書店日本テレビが製作に加わったため、時間も30分から45分、60分から80分、更に90分以上の長編化とし劇場公開されることとなった[15]。このため、劇場公開より先に日本航空国際便機内で先行上映され、劇場公開後も機内上映は続けられた。2007年9月には、日本航空国際線機内で「紅の豚」の再上映が行われた[16][17]

前述の鈴木敏夫のインタビューでは映画化のために日本テレビに直談判したと語られており、日本テレビが製作会社の一員となっているが、当初の予定ではフジテレビによる製作だったことが日本テレビ映画担当社員で本作の製作委員会の一員でもある奥田誠治によって明かされている。日本テレビはスタジオジブリ発足第1作の『天空の城ラピュタ』から放送権を獲得して、『魔女の宅急便』以降は製作も行って来た。そのジブリ作品がフジテレビへ移籍することを脅威に感じた奥田は、鈴木敏夫や宮崎駿に働きかけて動いてもらい、日本テレビが担当するように2、3ヶ月がかりで話を現場からひっくり返したのだという。2004年に出版された日本テレビの社史で奥田は「そこがターニングポイントで、ジブリとうちの関係も決まった感じ」と本作以降、スタジオジブリと日本テレビの関係が盤石になったとしている[18]。以後、NHKが『アーヤと魔女』を2020年に製作して放送するまで地上波でのジブリ作品は日本テレビが独占した。

続編に関して宮崎は、作品完成後の打ち上げで「紅の豚パートIIを製作する」、「そのためにラストのストーリーも変更した」と発表しており[15]、また、『借りぐらしのアリエッティ』製作時のインタビューでは「紅の豚の続編をやりたい」、「題名は『ポルコ・ロッソ 最後の出撃』」と語る一方で、「『やっぱだめだな』と思ったんですよ(笑)。それはやっぱり道楽だって」とも語っている[19]。主演の森山周一郎は後に「(宮崎は)引退を発表したが、パートIIを製作しないとストーリーが尻切れトンボのままで完結しない。何とか約束を実行して頂きたいものである。」と述べている[15]。しかし、森山は2021年に死去したため、この願いが叶う事はなかった。

テレビでの放送は、ジブリ作品全体で見ても頻度は高いほうであり、金曜ロードショーだけでも1993年の初放送から2020年11月放送で13回を数え、初回の視聴率は20%以上、以降も10%以上を維持している[20]。また、宮崎が長編アニメ製作からの引退会見を行った2013年9月6日には当初の放送予定を変更して急遽オンエアされている。

音楽を担当した久石譲は、同時期に1920年代をテーマにしたソロアルバム『My Lost City』を制作しており、宮崎が同じ時代を舞台に本作を作っていたことに運命的なものを感じたという。宮崎は『紅の豚 イメージアルバム』と一緒に送られた同作をとても気に入り、「あの曲が全部欲しい、全部『紅の豚』に欲しい」「イメージアルバムと取り替えて下さい」と久石に要求したという[21][22]

前作の『魔女の宅急便』に続いて劇場用アニメ映画の興行成績日本記録を更新した。この作品以降、スタジオジブリ映画における宮崎駿監督作品は全て東宝系での公開となっている。
時代背景

第一次世界大戦で戦勝国だったイタリア王国だが、国民から「栄光なき勝利」と呼ばれるまでに経済は不安定になっていた。本編は1929年頃の物語[注 3]で、既にイタリアは1922年ローマ進軍以来、ムッソリーニ率いるファシスト党独裁下となっている。

1931年から本格的にヨーロッパへ波及する大恐慌の足音や、この当時一世を風靡したアニメーションベティ・ブープに似た映画、ライバル役のカーチスが1933年のラジオドラマ『ローン・レンジャー』の名台詞「ハイヨー、シルバー!」を口にするなど、当時の世情をうかがわせる描写がちりばめられている。
あらすじ

ファシスト政権が統治する戦間期のイタリア。深紅の飛行艇サボイアを操る豚のポルコ・ロッソは、かつて人間だった頃イタリア空軍のエースだったが、今はアドリア海の小島に隠棲し、空中海賊(空賊)退治を請け負う賞金稼ぎとして暮らしている。ある晩、昔馴染みのジーナが営むホテル・アドリアーノを訪れたポルコは、米国製の水上機を操るアメリカ人カーチスに出会う。カーチスは空賊連合が雇った用心棒だった。彼はポルコを撃墜して名を挙げたいと考える。

しばらく後、サボイアのエンジン整備の為ミラノに向かって飛んでいたポルコはカーチスと遭遇し、エンジン不調のまま撃墜されてしまう。ポルコは大破した愛艇をミラノの工房ピッコロ社に持ち込むが、ピッコロのおやじの孫でまだ17歳の少女フィオが共同で修理に当たるという。ポルコは不安を感じて一時はよそを当たろうと思うが、フィオの熱意にほだされて愛機の設計を任せる。

一方、ファシスト政権に非協力的なポルコは、ミラノでも逮捕しようとする秘密警察や空軍に追われていた。警告に来たかつての戦友フェラーリンは空軍への復帰を薦めるが、ポルコにそのつもりはない。やがてフィオの才能と献身によってサボイアは復活し、「人質」という建前でフィオも乗せたサボイアは秘密警察を振り切って離陸する。

ポルコがアドリア海の隠れ家に帰還すると、空賊連合とマンマユート団が待ち受けていてサボイアを叩き壊そうとするが、フィオは毅然とした態度で空賊達を一喝して黙らせる。その場に居合わせ彼女のその様を見て一目惚れしたカーチスは、ポルコとの勝負でカーチスが勝利を収めた暁にはフィオを嫁にもらうという条件で結婚を申し入れ、フィオはポルコが勝利した場合はサボイアの修理代全額をカーチスが負担するという条件で承諾。困惑するポルコをよそに、フィオの運命をかけた決闘が取り決められる事態となった。

決闘当日、ポルコとカーチスのドッグファイトは決着がつかず、素手の殴り合いにまでもつれ込んだ末、ダブルノックアウトの後に辛うじて立ち上がったポルコが勝者となる。フェラーリンからの密告でイタリア空軍が迫っている事を知って駆けつけてきたジーナの一報により、空賊や見物に来ていた群衆達が散り散りに逃げていく中、ポルコとフィオにも不意に別れが訪れる。

フィオのモノローグでその後が語られつつ物語は幕を閉じる。
登場人物登場人物達のコスプレ(イタリア・ルッカコミックス2012)。下段左からマダム・ジーナ、ポルコ・ロッソ、フィオ・ピッコロ、上段にマンマユート・ボス。
ポルコ・ロッソ(Porco Rosso) / マルコ・パゴット(Marco Pagot)
声 - 森山周一郎(青年時代:古本新之輔)本作の主人公で、口髭をたくわえた豚人間[注 4]の姿になっている男。映画パンフレット[23] によれば、軍に戻る事を拒否して自分自身に魔法をかけたのだという[24]。通称はイタリア語で「赤い豚(紅の豚)」という意味。1892年 - 1893年生まれの36歳。17歳の頃から飛行機を乗り回し、イタリア空軍入隊後は大尉まで昇進し、第一次世界大戦ではエース・パイロットとして華々しく活躍していた。退役した現在は、全体を艶やかに赤塗りした飛行艇サボイアS.21試作戦闘飛行艇[注 5]に乗って空賊相手の賞金稼ぎとして荒稼ぎしている。一方で、かつて大戦中に嵐の海に落ちた敵パイロットを助けたなどの義侠心あふれる逸話も伝わっていて、豚の姿となった今でも多くの女性たちにモテる人気の飛行艇乗りである。ピッコロ一族のバァちゃん達には、「ポルチェリーノ(ブタちゃん)」と呼ばれている[25]。腕の良い賞金稼ぎとして幾多もの空賊を撃退しているが、「戦争ではないから殺しはしない」というポリシー[注 6]を持っている[26]。機動性に優れる戦闘機同士の空戦では「ひねり込み」と呼ばれる戦闘機動を得意とし、彼同様に優れたパイロットであるカーチスですらはめている。普段は、アドリア海にある無人島の隠れ家で自由気ままな暮らしを送っている。街に出る時には白い背広に赤いネクタイを着用し、上からカーキ色トレンチコート姿、ボルサリーノソフト帽を被り、夜中でも黒眼鏡を常用して目元を隠しているが、顔を洗うシーンで素顔を見せている[注 7]


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