紅の豚
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紅の豚ポスター|英語版Wikipedia

概要ドゥブロヴニククロアチアアドリア海沿岸の町)。

世界大恐慌の時代のイタリアアドリア海を舞台に、飛行艇を乗り回す海賊ならぬ空賊と、空賊相手の賞金稼ぎを生業とするブタの姿をした退役軍人操縦士の物語。生家が航空機産業に関係していたため、幼い頃から空を飛ぶことに憧れていた宮崎が、自分の夢として描いた作品である[要出典]。

宮崎自身がその演出覚書において「『疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画』であることを忘れてはならない」と記しているように[7]、宮崎は本作品を、「若者をまったく排除して作った(中略)『中年のための映画』」と銘打っている[8]。一貫してアニメを児童のために作ることを自らに課してきた宮崎にとっては、製作後も是非を悩み続ける作品となった。一方で「イタリア人すら忘れてしまった航空機を復活させたり、存在しない空軍を出せたりしたことは道楽としては楽しかった」とも語っている[9]。また、後述のように続編製作を考えるなど、宮崎の思い入れが非常に強いことがうかがえる。

本編制作中にプロデューサー鈴木敏夫の製作した宣伝用予告映像は、過激な空戦シーンを中心に繋いだ戦争映画さながらのものだった。まるで本編と方向性の異なるイメージで作られたそれに対し、宮崎は猛烈に怒ったという[要出典]。

魔女の宅急便』のヒットにより、宮崎には興行的な成功というプレッシャーがのしかかるようになった。そこで宮崎は次の大作へのステップとして、息抜きになるような30分程度のビデオ作品として、本作品を製作することを提案した[10]。しかし、宮崎の作品は膨大な予算を必要とすることと、鈴木プロデューサーがビデオ作品を作ることに否定的であったことから[10]、史上初の機内上映作品として日本航空に企画が持ち込まれた[11]。なお、後に『紅の豚』となる作品の原案はかなり前から宮崎が温めていたものであり[12]、ビデオ用作品としての企画以前に宮崎が映画化の提案をしたことがあるが、その時点では鈴木プロデューサーは「豚が主人公の映画にお客さんが入るわけがない」と猛反対したという[10]

企画書は1990年2月27日に完成、この時点での予算は2億円だった[12]。並行して月刊誌『モデルグラフィックス』1990年3月号?5月号の、宮崎が担当する連載「宮崎駿の雑想ノート」において、原作となる「飛行艇時代」が連載された。『紅の豚』は「飛行艇時代」のあらすじを大筋で踏襲しているが、「飛行艇時代」にはポルコの過去のエピソードとそれに関わる人物(ジーナとフェラーリン)、ポルコが指名手配されファシスト政権に狙われるシーンなどシリアスな要素はなかった。また、原作ではピッコロ一族の男性が何名か登場するほか、マジョーレ湖で十分にテストをしてから出発するなどの相違点もある。この「飛行艇時代」は、大日本絵画より刊行された『飛行艇時代』(1992年、増補改訂版2004年)に再録されている。1990年9月には宮崎のほかプロデューサーの鈴木敏夫、アニメ監督の押井守ら6名でロケハンが行われた。当時の企画案を反映して、イタリアのテベレ川流域の山岳都市をめぐり、最後にローマを訪ねるというものだった[13]

1990年11月から製作が開始され1991年8月に完成する予定だったが、『おもひでぽろぽろ』の制作が遅れ、1991年3月に宮崎駿1人で準備斑を立ち上げる形でスタートすることとなった[10]。宮崎はこの間に『おもひでぽろぽろ』の製作プロデューサーを務めながら『紅の豚』のコンテを切っていたが[14]、当時勃発した湾岸戦争の影響もあり、ストーリーは当初の能天気な航空活劇とは異なるものとなっていき、当初の時間に収まりきらなくなっていった[10]。そこで鈴木敏夫プロデューサーは日本航空と日本テレビに直談判し、ビデオ用作品を改め映画とする許可を取り付けた[10]。同年5月にはメインスタッフが入り今回は女性スタッフが主流の作品となった。その間に「宮崎作品なら」と東宝徳間書店日本テレビが製作に加わったため、時間も30分から45分、60分から80分、更に90分以上の長編化とし劇場公開されることとなった[15]。このため、劇場公開より先に日本航空国際便機内で先行上映され、劇場公開後も機内上映は続けられた。2007年9月には、日本航空国際線機内で「紅の豚」の再上映が行われた[16][17]

前述の鈴木敏夫のインタビューでは映画化のために日本テレビに直談判したと語られており、日本テレビが製作会社の一員となっているが、当初の予定ではフジテレビによる製作だったことが日本テレビ映画担当社員で本作の製作委員会の一員でもある奥田誠治によって明かされている。日本テレビはスタジオジブリ発足第1作の『天空の城ラピュタ』から放送権を獲得して、『魔女の宅急便』以降は製作も行って来た。そのジブリ作品がフジテレビへ移籍することを脅威に感じた奥田は、鈴木敏夫や宮崎駿に働きかけて動いてもらい、日本テレビが担当するように2、3ヶ月がかりで話を現場からひっくり返したのだという。2004年に出版された日本テレビの社史で奥田は「そこがターニングポイントで、ジブリとうちの関係も決まった感じ」と本作以降、スタジオジブリと日本テレビの関係が盤石になったとしている[18]。以後、NHKが『アーヤと魔女』を2020年に製作して放送するまで地上波でのジブリ作品は日本テレビが独占した。

続編に関して宮崎は、作品完成後の打ち上げで「紅の豚パートIIを製作する」、「そのためにラストのストーリーも変更した」と発表しており[15]、また、『借りぐらしのアリエッティ』製作時のインタビューでは「紅の豚の続編をやりたい」、「題名は『ポルコ・ロッソ 最後の出撃』」と語る一方で、「『やっぱだめだな』と思ったんですよ(笑)。それはやっぱり道楽だって」とも語っている[19]。主演の森山周一郎は後に「(宮崎は)引退を発表したが、パートIIを製作しないとストーリーが尻切れトンボのままで完結しない。何とか約束を実行して頂きたいものである。」と述べている[15]。しかし、森山は2021年に死去したため、この願いが叶う事はなかった。

テレビでの放送は、ジブリ作品全体で見ても頻度は高いほうであり、金曜ロードショーだけでも1993年の初放送から2020年11月放送で13回を数え、初回の視聴率は20%以上、以降も10%以上を維持している[20]。また、宮崎が長編アニメ製作からの引退会見を行った2013年9月6日には当初の放送予定を変更して急遽オンエアされている。

音楽を担当した久石譲は、同時期に1920年代をテーマにしたソロアルバム『My Lost City』を制作しており、宮崎が同じ時代を舞台に本作を作っていたことに運命的なものを感じたという。宮崎は『紅の豚 イメージアルバム』と一緒に送られた同作をとても気に入り、「あの曲が全部欲しい、全部『紅の豚』に欲しい」「イメージアルバムと取り替えて下さい」と久石に要求したという[21][22]

前作の『魔女の宅急便』に続いて劇場用アニメ映画の興行成績日本記録を更新した。この作品以降、スタジオジブリ映画における宮崎駿監督作品は全て東宝系での公開となっている。
時代背景

第一次世界大戦で戦勝国だったイタリア王国だが、国民から「栄光なき勝利」と呼ばれるまでに経済は不安定になっていた。本編は1929年頃の物語[注 3]で、既にイタリアは1922年ローマ進軍以来、ムッソリーニ率いるファシスト党独裁下となっている。

1931年から本格的にヨーロッパへ波及する大恐慌の足音や、この当時一世を風靡したアニメーションベティ・ブープに似た映画、ライバル役のカーチスが1933年のラジオドラマ『ローン・レンジャー』の名台詞「ハイヨー、シルバー!」を口にするなど、当時の世情をうかがわせる描写がちりばめられている。
あらすじ

ファシスト政権が統治する戦間期のイタリア。深紅の飛行艇サボイアを操る豚のポルコ・ロッソは、かつて人間だった頃イタリア空軍のエースだったが、今はアドリア海の小島に隠棲し、空中海賊(空賊)退治を請け負う賞金稼ぎとして暮らしている。


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