紀州征伐
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また軍事に極めて熟達し、とりわけ弓と鉄砲の訓練に励んだ」と描写する(『寺社勢力の中世』p.98及び『信仰と自由に生きる』p.321)。
^ 高野山も、行人の「惣分」によって政策が決められている点は根来寺と同様だった(『日本の中世寺院』p.123)。
^ 正確には合議制ですらなかった。根来寺内部では多数の会議が乱立して収拾がつかないほどであり、結局は少数の有力行人が決定を左右しており、「首長なし」と表現された(『寺社勢力の中世』p.168)。
^ 主に荘園領主や農民に対する金融業の担保や利息として、田地の徴税権など(加地子も参照)を獲得するという方法で行われた(『信仰と自由に生きる』pp.336-338)。
^ この場合の「百姓」とは、兵農未分離の有力農民、すなわち地侍を中心とするものである(『秀吉の天下統一戦争』p.159)。例として、佐武伊賀守は後に日高郡山地郷で一揆を起こした地侍らを「百姓」と呼んでいる(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.32)。なおこの時代、「百姓」は農民のみを指す言葉ではなく、多くの非農耕民(商人・工人・海民など)を包含する言葉だった(網野(2007))。
^ 『昔阿波物語』は讃岐十河氏に仕えた二鬼島道智の著作である(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.31、『戦国合戦大事典』p.304)。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』pp.115-116。
^ 武内善信「雑賀一揆と雑賀一向一揆」(大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年)P298-325)
^ 両軍の兵力については『戦国鉄砲・傭兵隊』p.117
^ 三組の中にも、組の決定に反して本願寺方に留まる者もいた(『荘園の世界』上巻p.277、『戦国合戦大事典』p.240)。
^ その他に稲葉一鉄氏家直昌不破光治丹羽氏勝などが参陣したことが記されている(『信長公記』pp.36、38)。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』p.148
^ この時の勝利を祝う人々が雑賀荘鎮守関戸矢の宮で踊ったのが起源となり、現在でも和歌浦東照宮の祭礼和歌祭で踊られている雑賀踊りが誕生した。雑賀踊りの特徴である片足での踊りは、鈴木孫一が負傷した足をいたわりながら踊ったことに由来すると言われている(『和歌山・高野山と紀ノ川』pp.68-69、72)。
^ 『戦国鉄砲・傭兵隊』では、降参というのはあくまで名目上のことに過ぎず、雑賀衆の形式的な降伏と引き換えに織田勢が撤退したというのが事実に近い、と推測している。
^ 信張は天正10年1月には岸和田城主だったとされるが、6月時点では岸和田城主は蜂屋頼隆に交替していたようである。蜂屋頼隆は同年に入ってから和泉一国の支配権を与えられて和泉国人衆を統括することになった((谷口(2005)pp.190、213)。
^ 対立の原因は不明だが、天正9年8月時点で両者に土地を巡る紛争があり、当時鷺森にいた顕如が仲介に入っていた(『戦国合戦大事典』p.280)。
^ 泉識坊の門主は土橋氏出身なのが通例で、この泉識坊も土橋氏と推定される(『戦国合戦大事典』p.281)。若大夫の子とする説もある(『荘園の世界』上巻p.279)。
^ 『戦国合戦大事典』p.258より。
^ 『信長公記』p.228『戦国合戦大事典』p.253では9月30日に京都、安土など3か所で約600人としている。
^ 高野七口の内訳は、西側に保田口(大門口)と麻生津(おうづ)口、北に学文路(かむろ)口、北東に大和口、東に大峯口、南に龍神口と熊野口とする。
^ たとえば堀秀政について、『高野春秋』では天正9年10月初頭には紀伊に着陣し、また翌10年4月には四国攻めの大将となった織田信孝に代わって総大将になり、6月には退却の指揮も取ったとされているが、『信長公記』では天正9年9月から10月中旬までは伊賀攻めに出陣、翌年3月には武田攻めに従軍、5月下旬には上洛中の徳川家康の接待役を命じられていた。
^ この段落の考察は、特記するものを除き『戦国合戦大事典』p.254-255
^ 「高野七砦」の配置は以下の通り。

西の脇庵の砦(城将は西方院覚心)……茶臼山城(現紀の川市(旧那賀町))を指す

龍門山雲路の砦(大光明院覚乗)……最も西側にある砦

寺尾壇の砦(医王院正算)

九度山槇の砦(智荘厳院)

雨壺山の砦(橋口隼人重藤)……これも九度山方面

東・茂原薬師砦(花応院快応) 西・西尾山砦(全光院覚応)……学文路方面。東西二砦を合わせて一つと数える

地蔵ヶ峰の砦(三宝院長政)……大和口・吉野大峰方面
(『城郭大系』10巻pp.451-452より)
^ 『信長公記』には信孝が高野攻めの将になったという記述はない。ただし、『信長公記』では信孝に関する記述は天正9年7月25日(信長から脇差を賜った)以降翌10年5月11日(四国攻めの大将となり、摂津住吉に到着)までなく、同年1月の安土の年賀の席にも名前がない。
^ 『和歌山県史』p.643
^ 筒井順慶本人が高野攻めに参戦した確証はない。
^ 無量寿院清胤は7月26日付けの上杉景勝宛の書状で、数度の合戦にいずれも高野勢が勝利し、織田勢を山内に入れなかったと述べている(『戦国合戦大事典』p.257)。
^ この節の戦闘経過に関する記述は『戦国合戦大事典』pp.255-258
^ 『城郭大系』10巻p.466では60,000、『中世終焉』p.119では100,000とする。
^ 『ルイス・フロイス イエズス会日本年報』では秀吉軍の死者約10,000人、紀州勢の死者15,000人以上としている(『中世終焉』p.158)。同じくフロイスの『日本史』ではそれぞれ7,000 - 8,000人と10,000人以上とする(同p.160)
^ 『久遠の祈り』p.250
^ 『日本史』では根来寺には僧侶だけで8,000 - 10,000人がいたと述べ、一方で高野山には3,000 - 4,000人の僧侶がいたと記す。この数字に対して複数の解釈がありうるが、小山靖憲は人数そのものでなく両寺の数の比率に着目し、「実態はともかくとして、根来寺には高野山の約二倍の兵力があるとフロイスはみていたのである」と述べている(『荘園の世界』上巻p.16)。
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