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紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。1889年(明治22年)には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。1891年(明治24年)には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年6月17日文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行うことになった。1914年(大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。1926年(大正15年)からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、片山哲内閣により、日本国憲法にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部により削除され、法は1948年(昭和23年)7月に施行された。日本が独立を回復した1952年(昭和27年)から復活運動がおき、1957年2月13日自民党纐纈弥三らは、建国記念日法案を国会に提出し、5月15日衆議院で可決(のち審議未了)、また1958年(昭和33年)に国会へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に賛否両論[8]あるなか数度の廃案と再提案を経て、1965年2月3日首相佐藤は全国知事会議で建国記念日は2月11日が適当、祝日法改正案は政府立法で国会に提出すると所信を表明、1966年(昭和41年)に、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」という趣旨の「建国記念の日」を定める国民の祝日に関する法律の改正が成立した。同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、政令によって定めることとしていた。そのため、同年12月、佐藤栄作内閣は、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日とした。同政令は即日施行され、翌1967年(昭和42年)の2月11日に実施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となった。
1966年12月8日建国記念日審議会は建国記念日を2月11日と答申し、12月9日公布された(政令)。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
紀元節祭
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紀元節が祭日とされていたときには、その当日、宮中三殿の賢所、皇霊殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全国の神社においても、紀元節祭が行われた。
紀元節祭は、初めて紀元節とされた1873年(明治6年)1月29日に、宮中三殿の皇霊殿において行われたのが最初である。このときには皇霊殿においてのみ祭祀が行われ、賢所には便りの御拝が行われただけであった。1914年(大正3年)から、全国の神社でも紀元節祭を行うように定められ、1927年(昭和2年)の皇室祭祀令の一部改正によって、賢所、皇霊殿、神殿において行われるようになった。
皇室祭祀令が定める大祭のひとつで、天皇が皇族および官僚を率いて親ら祭典を行う。天皇の出御は午前9時30分で、御拝礼御告文を奏して入御。ついで皇后、皇太后の御拝、皇族の御拝がある。参列員は文武高官有爵者優遇者、勅任待遇までの官僚で、正午から午後3時30分まで、有資格者の参拝が許された。当夜は賢所御神楽の儀に準じて皇霊殿に御神楽の奏楽があり、このとき天皇が御拝して、入御ののち神楽に移った。天皇は、神楽が終わるまで就寝しなかった。伊勢神宮、官国幣社以下の神社においては、1914年(大正3年)から、中祭式で祭典が行われた。
1947年(昭和22年)5月2日の皇室祭祀令廃止、1948年(昭和23年)7月20日の休日ニ関スル件廃止を受けて、1949年(昭和24年)以降、大祭としての紀元節祭は行われなくなった[9]。ただし、昭和天皇は同年の2月11日より、宮中三殿において、臨時御拝(りんじぎょはい)として、旬祭と同じ作法で親拝を行った[10]。平成以降は三殿御拝(さんでんぎょはい)に名称が改められ、同様に天皇の親拝が行われている[11]。橿原神宮へも勅使が派遣され[12]、御神楽奉納は神武天皇祭(4月3日)に併せて行われている。
民間では、一部の有志によって建国祭などと名称を変えて式典が行われている。また、1967年(昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。神社本庁などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮内庁はこれを拒否している。右翼団体は21世紀にも建国記念の日に「紀元節」を奉祝する集会や街宣活動を日本各地で行う[13][14]。
唱歌「紀元節」ウィキソースに祝日大祭日歌詞並楽譜の原文があります。
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高崎正風作詞、伊沢修二作曲の唱歌「紀元節」が1888年(明治21年)に発表され、1893年(明治26年)には文部省によって祝日大祭日唱歌に選定された。一、雲にそびゆるちほのねおろしに艸も木も 紀元節の2月11日という日付の由来については、「建武年間記」「建武年中行事」によると、延喜式神名帳筆頭にある宮中内の座神「韓神社」の祭りを、建武2年2月11日に後醍醐天皇が執り行ったことに由来するとする説がある[15]。 紀元節には、社会事業奨励を目的に宮内省から、業績が顕著な病院(財団法人)等に対し、金一封が下賜された[16]。また、都道府県単位で社会事業功労者、教育功労者、産業功労者等に対する表彰伝達が行われていた[17]。表彰制度の多くは、第二次世界大戦後も続けられているが、表彰日は他の節目に行われる例も多くなった。 天皇の即位など節目の年の紀元節には恩赦が行われた。具体的には1934年(昭和9年)の紀元節では明仁親王誕生を記念した恩赦が、1938年(昭和13年)の紀元節では憲法発布50年を記念した恩赦が行われている、当時服役していた五・一五事件の首謀者の例では、刑期をそれぞれの恩赦時に1/4減刑されるなどの恩恵を得ている[18]。
なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ
二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ
三、天つひつぎのみくら千代よろづ世に動きなき
もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ
四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ ? 紀元節 高崎正風
諸説
その他
脚注[脚注の使い方]^ 四大節は、旧制度の4つの祭日で、紀元節(2月11日)、四方節(1月1日)、天長節、明治節を指す。
^ 小野雅章「象徴天皇制下における祝日学校儀式の展開過程 : 復古的天皇観と象徴天皇観との相克