紀の川
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根来寺を焼き討ちした羽柴軍は太田党の本拠地・太田城(現・和歌山市太田)への攻撃を開始した。最初は力攻めを行ったが太田党の奇襲による打撃を受け、秀吉は得意の兵糧攻めによる攻撃に切り替えた。そしてこの時秀吉が選択したのは、備中高松城攻めと同じ水攻めであった(太田城水攻め)。

秀吉は明石則実に命じ堤を設計させ、付近を流れる紀の川を堰き止めて太田城を水没させる策に出た。推定で堤高3メートルから5メートル、堤の長さ6キロメートルの大規模な土堤であり、所伝通り3月25日に起工し、4月1日に湛水を開始したとなると全て人力であるにもかかわらずわずか6日間で完成させたことになる。十分な籠城準備が出来ていなかった城内は10日余りで兵糧が尽き、蜂須賀正勝前野長康降伏勧告を受諾し4月12日に太田城は開城。城主である太田宗正を始め51名が自刃して戦いは終了した。

この第二次太田城の戦いにおける秀吉の水攻めで建設された堤は、治水にも利水にも関係しない軍事的な河川工作物であるが、紀の川における初の大規模な河川工作物である。
紀州藩政下の治水・利水

1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて本戦に参じ、戦勝後の恩賞で紀伊一国を領する事となった浅野幸長は、古くから存在していた堤防を改修して街道としていた。紀の川の治水ではこれら街道が堤防を兼ねる形で建設されていたが、到底十分なものではなかった。大坂夏の陣の後、安芸広島に転封となった浅野氏に代わり、1619年元和5年)に南海の鎮として駿河府中より入部したのが、家康の十男・徳川頼宣である。頼宣入国により、徳川御三家の一つ紀州徳川家が成立したが、これが紀の川の河川開発の号砲ともなった。

紀州藩南海道の鎮護を目的とし、大坂や西国を監察する役目を担っていた為居城である和歌山城を大幅に拡張する必要性が生まれた。頼宣は居城の拡張と城下の発展を図るためには紀の川の治水が不可欠と考え、嘉家作丁から地蔵の辻に至る高さ3.0m・天端幅5.0m・総延長1.7kmの堤防を建設し、補強する為にヤナギを植えた。これは「柳堤」と呼ばれ、更に地蔵の辻から八軒屋までの区間に松並木で強化した堤防を建設した。これは「松原堤」と呼ばれるが、堤に植えられたマツは敵の侵攻の際に切り倒して和歌山城の防衛に利用する事も頼宣は考えていた。また、岩出付近には「花見堤」が1626年寛永3年)に建設されているが、名の由来はこの付近一帯に広がる桃園が、春になると見事な開花風景を見せることから付けられたといわれている。この他上流の伊都郡(現・かつらぎ町)には三代将軍徳川家光の命により高野山大塔建築の為の貯木機能を兼ねた「上様堤」や「千間堤」が寛永?寛文年間に建設されている。
紀州流治水工法

こうした頼宣の治水により次第に新田開発が為されて行く様になったが、こうした治水と利水を組み合わせた総合開発に取り組んだのは第五代藩主である徳川吉宗であった。吉宗は井沢弥惣兵衛大畑勝善を登用し、紀の川流域の総合開発に着手した。彼らの採った手法は、先ず治水を行い後に利水を行うもの、具体的には連続堤を直線化した堤防に改築して切れ目を無くし、河原と氾濫原を分離する。そして分離した氾濫原に紀の川から用水を引き、新田開発を行うというものである。この手法は「紀州流治水工法」と呼ばれるが、吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任した後には利根川荒川の治水・利水に採用され、見沼代用水を始めとする関東平野の大規模灌漑事業に結実して行く。

紀の川では本川に上流から小田井堰・七郷井堰・藤崎井堰・小倉井堰・六ヶ井堰・宮井堰・四ヶ井堰が建設・拡張修復され、支流の貴志川には佐々井堰・諸井堰・丸橋井堰が、安楽川には安楽川井堰が建設された。これら井堰から引かれた用水路によって氾濫原の新田開発が促進された。代表的なものとしては安田島新田(九度山町)、妙寺新田(かつらぎ町)、中島新田(岩出市)、松島新田(和歌山市)などがあり、こうした紀州流治水工法による新田開発によって1839年には約72,700石の増収を紀の川流域だけでもたらし、灌漑が可能になった耕地面積も約一万町歩(約992,000ha)に上った。この吉宗による「紀州流治水工法」こそ、後の河川総合開発事業の原点にも通じる。
吉野川分水

紀州ではこのように紀の川を有効利用した新田開発が行われていたが、大和北部の奈良盆地は紀の川のような水量が豊富な大河は無く、大和川などは渇水時には容易に水不足に陥り、旱魃による被害が起こり易かった。この為、農民は古くから大小様々なため池を大和川流域に建設。さらに隠し井戸を造って水を確保するという苦労を長年続けていた。他の地域がたとえ晴天続きの順調な天候であっても、少雨地帯である奈良盆地では却って旱魃を招くという皮肉な状況であり、この事を指して人々は『大和豊年米食わず』と囁いていた。

奈良盆地に暮らす住民にとって、滔々と流れる紀の川の水は何者にも替えがたい魅力的な水であった。そして、『奈良盆地に紀の川の水が引けないか』という願望となり、やがてそれは「吉野川分水構想」へと繋がっていった。最初に発案したのは高橋佐助であり、元禄年間に構想をまとめている。その後寛政年間には角倉玄匡が再度実地調査を行っているが、何れも中途で挫折した。幕末から明治時代初期には吉野郡下渕村の農民達が分水計画を立ち上げ、更に辰市祐興も同様の計画をまとめた。これらの計画は明治政府も注目し実際に実施計画調査を行っているが、和歌山県の反発もあり中断。その後奈良県は名張川流域からの分水を計画し、「宇陀川分水」計画も策定したが財政難や水利権を持つ京都府の反対でこちらも挫折した。この様に「吉野川分水」は何度挫折しても再び構想される、奈良県民300年の悲願となっていった。

大和国・奈良県側からすれば『奈良県に降った雨が流れる紀の川の水を、使うのは当然』という意識もあった。だが紀伊国・和歌山県側はこの考えに猛反発した。紀の川は最大流量と最小流量の差(河況係数という)が日本一大きい。雨が降るのは6月?9月の時期に集中し、その時期に降らなければ確実に水不足を招く。かといって降りすぎれば確実に水害を招く厄介な河川でもあった。更に新田開発は成功してもそれは紀の川に近い氾濫原での事であり、川から遠い地域や山裾に近い地域は慢性的な水不足を受けており紀の川流域にもため池は多かった。


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