精神障害の診断と統計マニュアル
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多くの文章はメディカル203と同一であった[11]。このマニュアルは130ページで106の精神障害が一覧にされた[13]。そこには「人格障害」(personality disturbance)のいくつかの分類が含まれ、「神経症」(神経質、自我異質的(英語版))とは区別された[14]。同性愛者は1974年5月まで、DSMに残った[15]
DSM-II (1968年)

1960年代、精神疾患自体の概念に多くの課題が存在した。これらの課題はトーマス・サズ(英語版)のような精神科医からもたらされ、彼の主張は精神障害は、道徳的な衝突を偽装するために用いられている神話であるということである。

アーヴィング・ゴッフマンのような社会学者からは、精神障害は、単に非体制者を社会的に決め付け制御する方法の例であるとされた。行動主義心理学者は、識別できない現象であるという精神医学の原理的な信頼性に挑んだ。また同性愛権利活動家からは、同性愛を精神障害として記載するAPAを批判した。ローゼンハン実験が『サイエンス』にて公開され多くの注目を集め、精神医学の診断の有効性における攻撃だとみなされた[16]

とはいえ、APAはICD(第8版、1968年)の精神障害の章の次の重要な改定と密接に関連しており、そのことはDSMの改定版の推進を決定した。1968年に公開され、182の障害が挙げられ、134ページの長さであった。DSM-Iとかなり似ていた。「反応」(reaction)の用語は破棄され、「神経症」(neurosis)の用語は維持された。

DSM-IもDSM-IIも、主として精神力学的精神医学が反映されていたが[17]クレペリンの分類の手法から、生物学的な視点と概念を含んでいた。特定の障害に対する症状は、詳細には規定されなかった。多くは、神経症と精神病との区別に基づく、葛藤による広い反映や生活の問題への不適応な反応とみなされた(概略として、不安/うつは、大きく現実に触れており、幻覚/妄想は現実から切断され生じている)。

社会学と生物学的な知識が組み込まれ、正常と異常の間の境界は、明確には強調されなかった[18]。人格障害が「感情的苦痛を伴わなかった」という見解は破棄された[14]

影響力のある1974年の論文は、ロバート・スピッツァーとジョセフ・L・フレイス(英語版)によるもので、彼らはDSM第2版(DSM-II)が信頼性の低い手段であることを実証した[19]
DSM-II 第7版 (1974年)

ロナルド・バイエルが記述しているように、精神科医と同性愛権利活動家については、APAに対する同性愛権利活動家の明確な抗議が、サンフランシスコで大会が開かれた、1970年に始まった。活動家は、スピーカーを遮断したり、同性愛を精神障害とみなす精神科医を罵ることで、大会を邪魔した[20]

この活動は、1960年代からの精神医学的な診断の正当性に挑んだ、広い反精神医学運動の文脈で生じた。反精神医学活動家は、同じAPAの大会に抗議し、標語や知的基盤を共有した[21][22]
DSM-III (1980年)

1974年、DSMの新しい改定版を作成するという決定がなされ、ロバート・スピッツァーが特別委員会の委員長に選出された。きっかけは、DSMの用語集を世界保健機関が出版する疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD、International Statistical Classification of Diseases)と一致させるというものであった。この改定版は、スピッツァーと彼の選出した委員会のメンバーの影響力と管理の下で、はるかに広い委任となった[23]。ひとつの目標は、有名なローゼンハン実験を含む多くの批判を受けて精神医学の診断の均一性と信頼性を改善するというものであった。精神医学的な診断が欧州とアメリカ合衆国で著しく異なっていたことを示した研究の後に、アメリカと他の国とで標準的な診断の実施の必要性も存在した[24]

この基準では、主にセントルイス・ワシントン大学 とニューヨーク州精神医学研究所(英語版)における研究志向的な精神医学のグループによって開発されていた研究診断基準(RDC)とフェイナー基準(英語版)から、多くの精神障害が採用された。他の診断と、障害の新しい分類の可能性は、スピッツァーを委員長して委員会の一致によって認められた。重要な目的は、病因学的な仮説よりも、口語の英語による記述的な言葉遣いに基づく分類であるが、その分類手法は特定の基礎病理を反映した分類では、それぞれの固有の症状の様式を想定している。精神力学生理学の見解は破棄され、規制立法のモデルをとった。新しい「多軸評定」は、単なる診断よりも統計的な集団調査により適するようにと意図された[17]人格障害は、精神遅滞と共にII軸に位置づけられた[14]

最終的に1980年に出版されたDSM-IIIは、494ページと265の診断カテゴリーを挙げた。国際的に広く急速に用いられ、精神医学における革命あるいは変革と呼ばれた[17][18]。一方で、ロバート・スピッツァーは、後にアダム・カーティス(英語版)とのインタビューで、自らの仕事を批判し、深刻な精神的な問題のないであろう人口の20?30%の医療化につながったことに言及した[25]

DSM-IIIができると、アメリカでもイギリスでも、(抗うつ薬プロザックの)イーライリリーが資金援助を行い、アメリカではうつ病を啓発するために小冊子800万部とポスター20万枚が配布された[26]
DSM-III-R (1987年)

1987年、DSM-III-RがDSM-IIIの改定版として出版され、これはスピッツァーが監督したものである。カテゴリーは改名また再編され、基準には大きな変更があった。6つのカテゴリーが削除され他のものが追加された。議論となった診断は、月経前不快気分障害(pre-menstrual dysphoric disorder)と自虐的人格障害のようなものであり、検討され破棄された[17][27]。DSM-III-Rは総計して292[28]の診断を含み、567ページの長さであった[29]
DSM-IV (1994年)

1994年、DSM-IVが出版され、886ページ中に374[28]の障害が挙げられた。編集委員会の委員長はアレン・フランセスであった。4人の心理学者を含めた27人での運営委員会が導入された。この運営委員会は、5 - 16人からなる13の作業グループを形成した。各々の作業グループには、約20人の助言者が居た[要説明]。この作業グループは、3段階の工程を実施した:最初に、各々のグループは、広範な文献レビューを行う;次に、研究者からデータを要求し、保守的に受けると共に基準が変更を要するかの決定を分析する;最後に、臨床診療の診断に関連する他施設実地試験を行った[30][31]


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