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2023年8月2日の第1回「米の将来価格に関する実務者勉強会」[39]と8月9日の第3回「米産業活性化のための意見交換」[38]では、ぶった農産の佛田利弘社長が「グリーンフードテックマーケット」[40]について、流通経済研究所の折笠俊輔主席研究員[41]が「みらい米市場」[42]について、それぞれ説明した。

大手コメ卸の神明(東京都中央区)、東京商品取引所、堂島取引所、SBIホールディングスなど16社の出資を受け、流通経済研究所は「みらい米市場」を運営する「みらい米市場株式会社」(東京都新宿区)を2023年8月10日に設立し[43][44][45][46][47]、10月16日に市場を開設した[45][47][48]。最大の売り手としてホクレン農業協同組合連合会北海道札幌市)が参加し[44][48]、10月18日にオンライン市場に出品する道内の11生産部会とコメ15種類を公表した[49]

また、ぶった農産と田仲農場(茨城県稲敷市)は、「グリーンフードテックマーケット」の運営会社として「農場(のうば)」(石川県野々市市)を10月12日に設立し、12月以降に取引を始めると発表した[50][51][52]

コメ現物市場の取引が活発になれば、天候などによる価格変動リスクをヘッジできる先物取引のニーズが高まることが予想される。このため、コメ先物の再上場を目指す堂島取引所は、独自に「コメ先物の市場開設に係る有識者会議」を開催し、11月28日の初会合にプレゼンターとして「みらい米市場」の折笠社長を招いた[53]。当業者の意見を取り入れた商品設計を行って本上場を申請する準備を始めた[53]

農水省は、2024年1月30日に「コメの将来価格に関する実務者勉強会」のとりまとめ[54]を公表した[53]。勉強会では、国産米の安定的な取引を持続するためには、需要に応じた生産や事前契約の拡大に継続して取り組み、供給側で再生産可能な米価を確保する重要性が指摘された[54]。将来価格を予め決めることは、先を見通した経営や需要に応じた生産の実現に寄与する[54]。予め取引価格を決められる取引形態は3種類あり、現時点で行われている「現物先渡相対取引」(事前契約取引)と現時点では行われていない「現物市場先渡取引」及び「先物市場取引」がある[54]。これらの取引形態を組み合わせて活用すれば、各事業者が将来の価格変動に対するリスク抑制を行う場合の選択肢が広がることが期待されると記している[53][54]。新たな現物市場として「みらい米市場」や「グリーンフードテックマーケット」が開設され、市場取引が拡大している[54]。今後、将来価格を決めることができる取引の選択肢が増え、関係者がそれぞれの事情に応じ活用するようになることが重要であるとまとめている[54]

堂島取引所は、2024年2月3日までに株主に対して臨時株主総会を開催する旨を通知した[55][56]市場価格から算出する米価指数先物の上場に向け、2月下旬にも農林水産省と経済産業省に認可申請する方針を固めたことが明らかになった[55][56]。認められれば8月にも取引を開始する[56]。指数の算出手法は有識者による検討委員会で詰めており、3月末までにまとめる方針だと報じられた[56]
その他

米の生産(稲作)には病害虫の防除や稲の生長のため、殺菌剤、殺虫剤、除草剤など各種の農薬が使用される。農薬については玄米中への残留農薬の基準がある。

プロクロラズ(殺菌剤)

ヒドロキシィソキサゾール(殺菌剤)[57][58]

フィプロニル(殺虫剤)

ベンスルフロンメチル(殺菌剤)

メフェナセット(除草剤)

ベンタゾン(除草剤)

ピロキロン(殺菌剤)

ジノテフラン(殺虫剤)

エトフェンプロックス(殺虫剤)

歴史

稲は、原産地である中国大陸の中南部から北部、南アジアに、そして日本へと伝わった。の一定面積あたり収穫量が1haあたり約3.5tであるのに対して、米は約5tと多く[59]、他地域に比べてアジアの稲作地域での人口増大を可能にした。
日本葛飾北斎富嶽三十六景』に描かれる米の仲買人葛飾北斎『富嶽三十六景』に描かれる水車の流れ水で米を研ぐ農夫

稲作は日本においては、縄文時代後期から行われ始めたといわれる[7]。これはプラント・オパールや、炭化したや米、縄文土器に残る痕跡などから分かる。大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が存在する。

弥生期では一粒当たりから生産できる量は400粒ほどだったが(それでも麦が一粒当たり150 - 170粒の生産量であることを考えれば、高い生産量といえる)、品種改良や水田開発が進んだ現在では一粒当たり2千粒(約5倍)まで生産量が上がっている[60]

米は、食料として重要である一方で、比較的長期に保存ができるという特徴から、マダガスカルメリナ人タイにおけるサクディナー制など、米食文化においては経済的に特殊な意味を持ち、これは日本でも同様であった。

長らく租税・あるいは年貢)として、また、石高制に代表されるように、ある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた。貨幣経済が発達すると、それとの調和を図るべく、札差業が発達、米切手の発生や堂島米会所に代表される近代的商品取引システムの生成が見られ、江戸時代には政治経済の中心に米が置かれていた。そのため日本人の米に対する思い入れは強く、米は最も重要な食べ物とされ、主食とされてきた。天皇が新米を含む五穀を神に捧げて収穫に感謝する新嘗祭のように、神道など信仰や民俗・文化とも深い関りを持つ(節「#文化」で詳述)。

しかし、階級や貧富、地域などによって大きな違いがあり、戦後高度経済成長以前は雑穀などを実際の主食にしていた人たちも多く、関東地方の畑作地帯などでは麦が7割から8割の飯を常食としていた[61]。現在は住宅地になっている東京杉並区では大正時代から少しずつ野菜の栽培が増加し、都市近郊の野菜栽培農家に転換したが、それ以前はなどの穀物を栽培し、日常食は稗と麦で米は少し入れるだけだった[62]。その一方、明治の初め秋田県権令島義勇の政府への報告書のなかに、「県民は山間僻地でも白米を食している……」とあり、藩政時代から白米の飯を食べている地域もあった。秋田は日本有数の穀倉地帯であり、雑穀の生産が少ないこともあって、農民に雑穀を食べるよう強要した他の地域とは違い、為政者の締め付けが然程ではなかったことにもよる[62]。隣の宮城県仙台藩時代から米の生産が盛んで正月以外にもを食べる習慣があり餅料理が発達した一方、第二次世界大戦前には関兵精麦が米穀餌料の卸や精麦で多額の利益を得ているなど、麦の需要が多かった地域でもある。これは仙台藩が米を江戸への輸出用(換金作物)として扱い、庶民は嗜好品として捉えていた名残とされる。なお戦後も麦の需要減少は緩やかであったため、関兵精麦は余力を残したまま不動産業への転換に成功している。越後長岡藩武士によるとされる、文化2年(1805年)刊行の『粒粒辛苦録』は、農民のきわめて厳しい食生活を描いている。これに対し、同じ越後長岡藩の庄屋大平家が天保6年(1835年)に著した『農家年中行事記』は、しばしば行事が催され食物や酒がふるまわれ、小作人を含めて自由に食を楽しんでいた様子が窺える。


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