米西戦争
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前史 ?スペイン帝国の全盛期と衰退?「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ヌエバ・エスパーニャ」も参照

1492年1月に成立し、かつて「太陽の沈まない国」と呼ばれ、世界的な強国として君臨していたスペイン帝国の地位は、19世紀後半までの数世紀の間に低下していった。それ以前、中世末期の大航海時代コロンブスが現在のバハマ諸島の東端に位置するサンサルバドル島に上陸し、当初はそれを香料諸島のインドと勘違いしてそこに住む原住民を「インディアン(インドの人々)」と呼んだ。それ以降スペインの軍人であるコルテスの「アステカ文明の発見と征服」を皮切りに、南北アメリカ大陸の大部分にまで及んだ金・銀鉱山の盗掘、そして現地の先住民を奴隷化して彼ら自身に金・銀を掘らせるエンコミエンダ制を実施し、その金・銀を船に積み込んでスペインのセビリャ港に運び出した。本国ではその金・銀で貨幣を大量に鋳造し、それを海軍力の増強や植民地拡大のための戦費に充てた。こうして近代16?17世紀のスペイン帝国は繁栄した。

しかし、ヨーロッパでのオランダ独立戦争においてオランダとイギリスの連合軍にドーバー海峡で敗北し、オランダの独立を許した。これ以来、香料諸島の植民地支配の主導権はオランダに奪われ、ポトシ銀山を始めとする南アメリカ各地の金・銀の産出量は減少し、海軍力は既に世界一の座から落ちるという具合に、明らかに衰退していった。
植民地の独立運動

時を経て時代は19世紀末から20世紀に入ろうとする頃、既にスペインにかつての大帝国の面影はほとんどなかった。東南アジアでは16世紀に当時のスペイン帝国で最大の版図を誇ったフェリペ2世の名前をとって名付けられたフィリピンが残るのみで、太平洋アフリカ西インド諸島にはほんの少数の散在した植民地しか残らなかった上に、その多くも独立運動を繰り広げていた。

フィリピンではアギナルドにより、キューバではアントニオ・マセオ、マクシモ・ゴメス、ホセ・マルティなどにより既に数十年に渡るゲリラ戦争が展開されていたが、スペイン本国はこれらの脅威に対抗しうる予算あるいは人的資源を十分に持っておらず、全ての面で不足していた。

そこでキューバにおいてキャンプを構築し、住民と独立軍を分離させて支援を止めさせる作戦を布告した。スペインはさらに反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、村々に残酷な仕打ちを行った。しかし1898年にはキューバ島の約半分がマクシモ・ゴメス将軍の率いる独立軍に支配され、結局スペインは立場を完全に回復することができなかった(第二次キューバ独立戦争)。
ジャーナリズムの読者数獲得競争と捏造記事「es:Propaganda en la guerra hispano-estadounidense」、「en:Propaganda of the Spanish?American War」、「ウィリアム・ランドルフ・ハースト」、「ジョーゼフ・ピューリツァー」、および「黒い伝説」も参照

キューバでのこれらの出来事は、アメリカの新聞が読者数を伸ばそうとしていた時期に起きた。1897年の「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という新聞記者による捏造記事をきっかけに[4]、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激した。そしてキューバへの介入を求める勢力の増大を招いた。詳細は「#イエロー・ジャーナリズム」を参照
開戦への圧力

そのため開戦への他の圧力も増大し、アメリカ海軍は開戦の1年以上前にフィリピンでスペイン軍を攻撃する計画を作成していた。西部への拡張およびインディアンとの大規模交戦の終了はアメリカ陸軍の職務を減少させ、軍の指導陣は新しい職務を望んだ。

早期から、アメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えており、マニフェスト・デスティニーに関する理論はちょうどフロリダの沖合にある、非常に魅力的に見える島によって作られた。キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だった)はアメリカとの間のものであった。

何人かの財界人も同様に開戦を要求した。ネブラスカ州のジョン・M・サーストン上院議員は、「スペインとの戦いは、すべてのアメリカの鉄道ビジネス及び所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場の出力を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」と明言した。太平洋を渡ってマニラまで向かうのに2ヶ月はかかる時代であったにもかかわらず、マニラ湾海戦は開戦からわずか約2週間後の5月1日に勃発した。
戦闘の経過
戦争の始まり

1898年2月15日にハバナ湾で、アメリカ海軍の戦艦メイン号(USS Maine, ACR-1)が白人士官の上陸後に爆発・沈没し、266名の乗員を失う事故が発生した(この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた)。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったが、『ニューヨーク・ジャーナル』、『ニューヨーク・ワールド』の2紙を始めとした当時のアメリカのメディアはスペイン人による卑劣なサボタージュ(破壊活動)が原因であると主張した。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを思い出せ!くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層アメリカ国民を刺激することとなった。この愛国的で好戦的な風潮はスプレッド・イーグリズムあるいは主戦論として知られている。

爆発原因に関する専門家の見解は現在も定まっていないが燃料である石炭の偶発的な爆発によるものとするのが一般的であり、コンピューター・シミュレーションによって確認もされている。なおアメリカ海軍は、調査により原因をボイラー欠陥と結論付けている[5]。一方で石炭自体にその原因を求めるものやアメリカを戦争に引き込もうとするキューバ人革命家によるサボタージュによるものとする異論も存在するが、スペインが戦争に消極的であったという点では一致している。

アメリカのウィリアム・マッキンリー大統領は開戦に同意せず、世論に対して長い間持ちこたえた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。スペインのサガスタ首相はキューバから職員を撤退させてキューバ人に自治を与えるなど、戦争を防ぐ為の多くの努力をした。しかしながらこれはキューバの完全独立には不十分なもので有り、大きく現状を変更するには足りなかった。

4月11日にマッキンリー大統領は内戦の終了を目的としてキューバへアメリカ軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出した。4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。これを受けてスペインはアメリカとの外交関係を停止し、4月25日連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言した。なお議会はその後、4月20日に戦争の宣言を遡らせる議決を承認した。
太平洋
フィリピン太平洋での戦い「フィリピン総督領」も参照

フィリピンにおける最初の戦闘は、5月1日のマニラ湾海戦である。香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリシオ・モントーホ提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃した。6時間ほどでスペイン艦隊は旗艦を含む3隻が沈没し、4隻が炎上するなど壊滅状態に陥った一方、アメリカ艦隊の被害は負傷者7名のみとほぼ無傷であった。

マニラ湾海戦の結果フィリピンのスペイン海軍は壊滅したが、マニラでは1万人以上のスペイン陸軍が駐留していた。海戦後にデューイと会談し、勝利の暁に独立させると約束されたフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者は、アメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃した。独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言して暫定政府を組織した。アメリカ本国のマッキンリー政権はマニラ市を占領するためウェズリー・E・メリット少将の指揮で大規模な派遣軍(正規軍5千人を含む2万人規模)を派遣した。6月30日に派遣軍の先発部隊、7月半ばにはメリット少将も現地に到着し、8月にはスペイン軍に降伏勧告を行い、14日に休戦協定が決定した。

フィリピン人による報復を恐れたスペイン軍は、マニラへフィリピン軍が入城しないことを降伏条件としており、スペイン降伏後のフィリピンの統治はアメリカが握ることとなった。これはフィリピンの独立運動側からすると不満な結果であり、独立運動の対象はスペインからアメリカへ移り、米比戦争へ繋がることとなった[6]
グアム島詳細は「グアム島占領(スペイン語版、英語版)」を参照

1898年6月20日アメリカ海軍巡洋艦チャールストン及び輸送船3隻の艦隊が、当時スペインの植民地だったグアム島カノン砲で砲撃し、これを占領しようとしたがスペイン側の司令官は戦争が始まったことを知らず、司令官自身がチャールストンに現れて降伏の意思を伝え、島にいた54名のスペイン軍兵士は捕虜となり、グアムは占領された。


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