米米CLUB
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初期

バンドの前身は、1979年から1981年にかけて活動した「A-Ken」という映画研究会[4]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「米米CLUB」というバンド名は当時人気のバンド「トム・トム・クラブ」を、小野田が「コメコメクラブ」と言い間違えたことに周りが大ウケし、「そんなバンドあったら面白いよな」と言い合ったのが発端と言われている。また、石井が冗談まじりに「とにかくダサいバンド名にしようぜ」と主張したという他にも、「雑誌などで注目してもらうため『※※クラブ』と名づけたが『米米クラブ』と誤表記されてしまった」という説もある。[要出典]

1981年秋のある夜、大久保(BON)と小野田の2人は「米米クラブ」という架空のパロディバンドがあると仮定し、その時のノリで「私こしひかり」「奥さん米屋です」「夜泣き米屋」といったオリジナルソング10曲を作り、テープに録音する[4]。しかし、それはほんの軽い遊びであり、以降は2人の記憶から消えていった。1982年3月には、文化学院を卒業。大久保は進学、小野田は就職、石井は街頭パフォーマンスなどをして過ごしていた。だが、1982年10月頃に、大久保と小野田がすっかり忘れていた「米米クラブ」の話を石井がどこからか聞きつけ(BONの 誰から聞いたの? の問いに 俺、BONからだと思うよ。石井談 おいしいとこだけ、10年分より)、「米米クラブってバンドやろうぜ」としつこく言い出し、大久保のバイト先にも石井から電話があり大久保がバイトから帰って来ると大久保の家に石井がいて夕飯を食べていたり等、しぶしぶ大久保がリーダーとなり、昔の音楽仲間を集め、何とかバンドとしての体裁を整えたのが始まりである[4]

1982年11月23日に、慶應義塾大学三田祭でオリジナル曲8曲と山本リンダの「狂わせたいの」を披露[4]。その場限りのおふざけバンドのつもりが、観客の好評を得た。メンバーも、ライブに空間的総合芸術の光を感じ、以後ライブハウスで活動を重ね「謎のパフォーマンス集団」などと呼ばれテレビや雑誌にも登場して話題となり[4]、1985年10月21日にシングル『I・CAN・BE』、アルバム『シャリ・シャリズム』で、CBSソニー(現 ソニー・ミュージックレコーズ)からデビュー。この頃、シングルやアルバム、雑誌では「米米クラブ」と表記されていた。デビューお披露目ライブ直前にドラマーが脱退し、急遽スタッフが連れてきたcharがドラムを担当することになり、それ以降charと米米クラブの仲は親密になった。[要出典]

この当時は、まだ駆け出しの新人バンドだったという事もあり、レコーディングの際はプロデューサーの言うことを聞かざるを得ず、自分たちの思い通りに演奏やアレンジをすることが出来なかった。「Paradise」の歌詞が2種類存在したり、「sure danse」(シュール・ダンス)のアレンジがライブとアルバムで違うのはこのためである。これに関しては、当時メンバーも皮肉を込めて「アルバムはライブとは別物」「ノベルティみたいなもの」などと語っている。[要出典]

ファンクミュージックをベースとした楽曲や演奏技術、メンバーの音楽センスを高く評価する声もあったが、[要出典]奇抜な衣装やメイク、コントのようなMCキャラクター重視で寸劇混じりの演出などにより、デビュー当初は“イロモノ”として扱われることが多かった。当時、同じソニー系列のレコード会社に所属していた聖飢魔II爆風スランプと合わせて「ソニー三大色物バンド」と呼ばれたこともあった[5]

フジテレビの『冗談画報』(1987年10月22日放送)で「sure danse」のパロディ版「syunou danse」(収納箪笥)を披露したり[6]、ミニアルバムに「Paradise」のパロディ版「parodies」を収録する等、前述の“イロモノ”扱いはこういったところにも表れている。[要出典]

1987年公開の映画『微熱少年』のダンスパーティーシーンに、当時EPICあるいはCBSソニーに所属していたアーティストが数組エキストラとして出演することになり、米米CLUBも特にセリフはないがワンカット出演している。[要出典]
全盛期

米米クラブの曲、衣装、ライブ、映画(出演者も含む)等は幅広い年齢層に楽しんでもらえる様な分野や当時の流行も取り入れており[要出典]、1988年にはシングル『KOME KOME WAR』、アルバム『GO FUNK』が、1989年にはシングル『FUNK FUJIYAMA』、アルバム『5 1/2』が売上ランキング上位に入り、1990年に「浪漫飛行」がシングルカット後にミリオンセラー、日本航空(JAL)の沖縄キャンペーンのCMソングに使用された。次第にJ-POPバンドとして世間に認知されるようになった。ただ、世間でヒットしたいわゆる売れ線系統の曲だけでなく、マイナーでディープなソーリー曲と呼ばれる楽曲も存在していた。ソーリー曲とは「ふざけた曲を歌っても、すぐに"Sorry"と謝り許してもらおう」「謝ってしまえば何でもあり」というような志向で作られた楽曲群であり、元々は「ウンコ曲」「企画物曲」と呼ばれていた。[要出典]

ユニークなアルバム・タイトルが多く[要出典]、ファーストアルバム『シャリ・シャリズム』(SHARI-SHARITHM)は、米米CLUBの活動のために立ち上げた個人事務所の名称(SHARISHARISM)でもあり、「米(シャリ)+リズム+?イズム」の造語。セカンド・アルバム『E・B・I・S』は、個人事務所(SHARISHARISM)が恵比寿にあることから。他にはもじりを多用し、『KOMEGUNY』はロサンゼルスでレコーディングをしたことから「アメリカ=米国=こめぐに」、『GO FUNK』は「ご飯食う」、『5 1/2』は「5半=ご飯」、『聖米夜』は「精米屋」、『PhiII』は「」、ラスト・アルバムの『PUSHED RICE』は「押米=おしまい」など、ダブルミーニングなどを多用した凝ったものが付けられた。


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