米米CLUB
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フジテレビの『冗談画報』(1987年10月22日放送)で「sure danse」のパロディ版「syunou danse」(収納箪笥)を披露したり[6]、ミニアルバムに「Paradise」のパロディ版「parodies」を収録する等、前述の“イロモノ”扱いはこういったところにも表れている。[要出典]

1987年公開の映画『微熱少年』のダンスパーティーシーンに、当時EPICあるいはCBSソニーに所属していたアーティストが数組エキストラとして出演することになり、米米CLUBも特にセリフはないがワンカット出演している。[要出典]
全盛期

米米クラブの曲、衣装、ライブ、映画(出演者も含む)等は幅広い年齢層に楽しんでもらえる様な分野や当時の流行も取り入れており[要出典]、1988年にはシングル『KOME KOME WAR』、アルバム『GO FUNK』が、1989年にはシングル『FUNK FUJIYAMA』、アルバム『5 1/2』が売上ランキング上位に入り、1990年に「浪漫飛行」がシングルカット後にミリオンセラー、日本航空(JAL)の沖縄キャンペーンのCMソングに使用された。次第にJ-POPバンドとして世間に認知されるようになった。ただ、世間でヒットしたいわゆる売れ線系統の曲だけでなく、マイナーでディープなソーリー曲と呼ばれる楽曲も存在していた。ソーリー曲とは「ふざけた曲を歌っても、すぐに"Sorry"と謝り許してもらおう」「謝ってしまえば何でもあり」というような志向で作られた楽曲群であり、元々は「ウンコ曲」「企画物曲」と呼ばれていた。[要出典]

ユニークなアルバム・タイトルが多く[要出典]、ファーストアルバム『シャリ・シャリズム』(SHARI-SHARITHM)は、米米CLUBの活動のために立ち上げた個人事務所の名称(SHARISHARISM)でもあり、「米(シャリ)+リズム+?イズム」の造語。セカンド・アルバム『E・B・I・S』は、個人事務所(SHARISHARISM)が恵比寿にあることから。他にはもじりを多用し、『KOMEGUNY』はロサンゼルスでレコーディングをしたことから「アメリカ=米国=こめぐに」、『GO FUNK』は「ご飯食う」、『5 1/2』は「5半=ご飯」、『聖米夜』は「精米屋」、『PhiII』は「」、ラスト・アルバムの『PUSHED RICE』は「押米=おしまい」など、ダブルミーニングなどを多用した凝ったものが付けられた。ファンクラブ名も「米米CLUB」をもじり「COME COME CLUB」(カムカムクラブ)という名前だった。[要出典]

コンサートも、他のバンドとは位置付けが大きく違い、「音楽を演奏するためのコンサート」というより「エンターテイメントショーのメインが音楽」というスタンスであり、「何よりもライブが活動の中心」という意識を強く持ち続けていた。多くのコンサートで2パターンないし3パターンの演出を準備し、セット・衣装・曲目ともすべて違うものを日替わりで行うなど、ショーへのこだわりは徹底しており、リハーサルは本番と寸分違わずに行っていたという。コンサートツアーの度に新曲が披露されたが、最後までレコーディングされず、コンサートでしか聴けなかった曲も多い。初期から演奏していた山本リンダの曲は、最後まで人気が高く、小野田のボーカルで「狂わせたいの」「どうにもとまらない」などをよく演奏していたが、「狙いうち」などは、原曲にはない3番を作詞して歌っていた。[要出典]

また、ただ観せるだけではなく、石井を筆頭とするメンバーのパフォーマンスにより、観客をショーに巻き込む手腕も一流で、皆がシュークリームシュの振り付けを真似て踊ることも定番となり、アリーナクラスのホールでは壮観な客席風景となった。観客が振り真似などをするコンサートは当時まだ少なく、客席が舞台と一体感を味わうための創意工夫がされたコンサートの先駆けであった。テーマパークの様なステージ、ライブ会場の中央に舞台を配置したステージ、米米CLUBのリーダーのBONの顔で帽子の部分に羽をつけたオブジェのセット等、初めて米米CLUBのライブに来た人も米米CLUBファンにとっても幅広い年齢層が楽しめるライブであり、メンバーの衣装を真似て自作しコンサートに着てくるファンも多く、コスプレの先駆けでもあった。この頃、ファンクラブの会報でコンサートの衣装デザインをファンから募集。会議中にコンサートでは動きづらいのでは? という意見もあったが縁起の良い金魚に決定。それらが話題となり、コンサートのチケットは常に入手困難であったため、家庭用ビデオの普及も背景に、コンサートを収録したビデオの発売が熱望され、後に、映像作品としても評価されるコンサートビデオを制作した。[要出典]
後期

1992年、フジテレビ月9ドラマ『素顔のままで』の主題歌に「君がいるだけで」が起用され、同曲は累計売上289.5万枚を記録し、同年の第34回日本レコード大賞を受賞するなどの大ヒットを飛ばすと、米米CLUBの知名度は一気に上昇し、ファン層は拡大、一方でそれ以降の曲は、広いファン層や売上げを要求されたものが多くなってしまった。彼らの特徴であったコミカルな要素が減り、フロントマンの1人であった小野田の活動は縮小、石井1人がメインボーカルを担当することが多くなった。そうした状況の変化は、これまではバンド活動を中心に行われて来た石井のアーティスト活動が、映画制作や個展といった公の場に移っていった。

そうした状況の変化と音楽性の違いと方向性の違いが原因となってか、1995年には結成当初からのメンバーであった坂口と得能が脱退。米米CLUBの基本的姿勢として、すべての楽曲で「作詞・作曲(・編曲) 米米CLUB」とクレジットし、ギャラを全メンバーできっちり等分するというものがあったが、1993年頃から編曲の名義は個人名も出し、石井の映画主題歌などでは石井個人名義でクレジットする、などの行動があったことにより、軋轢が生じたとの見方もある。[要出典]
解散

2人の脱退をきっかけに、次第にバンド活動に困難が生じ、人気面にもその影響は現れるようになる。脱退した2人に対するエールの意味合いを込めてリリースされた「JUST MY FRIEND」では皮肉にもオリコントップ10から大きく外れ、翌1996年の「STYLISH WOMAN」ではオリコン20位以内にすら入らないなどヒット曲が出せなくなり、人気に陰りが見えてくる。


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