米沢藩
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直江兼続は家康を追撃しようとしたが[25]、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した[26]。一説に景勝は天下に上杉家の信を失い、恥辱を残すことを恐れて許さなかったとされている[25]。直江兼続は矛先を出羽山形の最上義光に向け、9月3日に直江は米沢に帰城すると[27]、大軍を最上領に差し向けた(慶長出羽合戦)。直江は現在の東村山郡山辺町畑谷にあった畑谷城を落としたが、長谷堂城で最上軍の猛烈な反撃を受けて攻勢は停滞[27]、その間の9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった[26][25]。9月29日に景勝のもとに石田大敗の急報が入り、景勝は直江に総退却を命じた[27]。この時、上杉軍と最上軍、及び最上を救援する伊達軍との間で熾烈な追撃戦が行われ、両軍合わせて3,000余の戦死者が出た[27]

景勝は家康と和睦するため、11月に重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させた[26]。自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した[28][26]。こうして上杉家の支配による幕藩体制下の米沢藩が成立した[28]
藩史
上杉景勝の時代上杉景勝上杉家家老の直江兼続

上杉景勝が関ヶ原の戦いで出羽米沢に減移封されたため、直江兼続は米沢城を景勝に譲った。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市伊達郡福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣本庄氏を城代として置いた。

米沢は直江兼続の所領であったが、直江は上杉家全体の執政として若松城に詰めていたことが多かったため[12][29]、内政はほとんど整っておらず、城下は蒲生家の時代に築かれた8町6小路の町人町と数百の侍町があるに過ぎない小さな城下町であった[29]。この小さな城下町に会津に住んでいた家臣団や越後以来の寺社・職人などが大人数で移ってきたため、城下は大混乱した[29]。直江は上・中級家臣は別として[29]、下級家臣に対しては一軒に2、3世帯を共同で同居させてそれでも住居が無理なら掘っ立て小屋を建てたという[30]。また屋敷割りから祖の上杉謙信の霊廟を築いたりした[31]

大坂の陣では徳川方についた[32]。米沢の藩政の基礎を固めた直江兼続は元和5年(1619年)12月に[33]、上杉景勝はその4年後に死去した[33]
男系断絶と所領の半減

景勝の死後、家督はただ1人の息子であった定勝が継承した[34]。定勝時代の米沢藩は安定しており、事件は寛永17年(1640年)の数百戸を焼失した大火と寛永19年(1642年)の凶作くらいだったとされる[35]。定勝は正保2年(1645年)に死去し、家督は嫡子の綱勝が継いだ[35]。だが寛文4年(1664年)閏5月に綱勝は嫡子も養子も無いままに急死した[36]。このため上杉家は無嗣断絶の危機に立たされたが、綱勝の正室の父に当たる会津藩保科正之が奔走し、綱勝の妹富子高家吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲末期養子とすることを訴えて幕閣に認められた[36]。ただし所領に関しては、ペナルティとして信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が没収されて置賜郡内の15万石のみとされた[37]
綱憲から重定まで

綱憲は華奢な生活や吉良家への財政支援などにより藩財政を悪化させる。綱憲の時代の1702年(元禄15年)に赤穂藩浪士の吉良邸討ち入りがあった(元禄赤穂事件[38]


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