『作家の日記』を米川がほぼ訳了した1945年10月、河出書房が戦後版全集の刊行を申し入れ、翌46年6月、米川2度目のドストエーフスキイ全集の刊行が開始される。戦後の深刻な物資不足は紙も例外ではなく、終戦後爆発的に高まった書籍需要への対応が追いつかない状態で、米川版第2全集も初回版と比べて1冊あたり約半分の厚さ、また紙質もかなり質を落としての刊行を余儀なくされ、全50巻予定で刊行が始まっていた。この全集の際に米川はドストエーフスキイの全創作作品を訳了、刊行を果たした。ただし発刊当初は好評に推移していた売行きも、刊行が長期化する中、物資不足が立ち直りをみせ、1950年代に入って用紙、造本ともに上質な書籍が増加したことで、第2全集は採算が覚束なくなり、43冊を刊行した時点で、「書簡集」などを残して1951年4月にまたも続刊中止のやむなきに至った。
しかし河出書房も同年のうちにすぐさま新全集を企画、上質紙を確保、豪華な装幀に変更して、1951年8月、改めて米川個人全訳による第3次ドストエーフスキイ全集を刊行開始する。今回は1巻あたりのページ数を第2全集の倍以上に増やして全18巻での企画であり、1953年9月に完結。戦前からの米川の執念が漸く結実し、それまでの翻訳人生の集大成をここで一旦果たすこととなった。 多趣味の人であり、異母長姉・貞(米川暉寿
人物・交遊関係
家族・親族
異母長姉:米川暉寿(てるじゅ)は箏曲家。
異母長姉・貞は暉寿(てるじゅ)の芸名を名乗る盲目の筝曲家。
次兄:米川親敏(のち米川琴翁と改名)も箏曲家。親敏の娘の米川敏子も箏曲家で人間国宝。敏子の娘の米川裕枝も箏曲家で、二代目米川敏子となった。親敏の息子の恭男(のち二代目米川親敏となる)も箏曲家。
末妹の米川文子も箏曲家で人間国宝。三兄である清の娘の米川操(のち二代目米川文子となる)も箏曲家で人間国宝である。
前妻:米川蔦子
1915年、従妹の蔦子夫人と結婚。のち5人の息子をもうけるが、1923年に次男、1930年に長男が病気で夭逝、1940年には夫人も病死している。夫人の死の翌年の41年、後半生の伴侶となった15歳下の隆(多佳子)夫人を後妻に迎えている(隆夫人も前夫が病没しており、再婚同士であった)。
後妻:米川多佳子(1906?87)は、東京女子高等師範学校を卒業。戦後、永福町の米川宅に若い知識人が集まり、「米川サロン」の風情があったという[1]。
三男:米川哲夫(1925年-2020年)は東京外国語学校露語科を経て東京大学史学科卒、ロシア文学者・ロシア近代史家で東京大学名誉教授。
四男:米川和夫(1929年-1982年)は善隣外事専門学校露語科を経て早大露文卒、ロシア文学者・ポーランド文学者で明治大学教授。
五男の米川良夫(1931年-2006年)は早大仏文卒、イタリア文学者で國學院大學教授を務めた。
(先妻) ┃ ┃ ┏貞(暉寿) ┣━━┫ ┃ ┗駒 ┃ 米川常太郎 ┏菊枝 ┃ ┃ ┃ ┣速水 ┃ ┃ ┏━敏子━━━裕枝(二代目敏子) ┣━━╋親敏(のち琴翁)━┫ ┃ ┃ ┗━恭男(二代目親敏) ┃ ┣竹恵(7歳で早世) ┃ ┃ 利喜 ┣清━━━━操(二代目文子) ┃ ┃ ┏常夫(15歳で早世) ┃ ┃ ┃ ┣文男(2歳で早世) ┃ ┃ ┣正夫━━╋哲夫 ┃ ┃ ┃ ┣和夫 ┃ ┃ ┃ ┗良夫 ┃ ┗文子(初代)
訳書
ドストエフスキー『白痴』新潮文庫、1914、のち岩波文庫 全4巻のち全2巻
レフ・トルストイ『戦争と平和』昇曙夢共訳、新潮社、1915-16、岩波書店 1925-26 のち岩波文庫全4巻
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』新潮社、1917-18 のち岩波文庫全4巻
メレジュコーフスキイ『基督と反基督』新潮社、1921-22
メレジュコーフスキイ『パーヴェル一世』叢文閣 1921
プーシュキン『エヴゲーニー・オネーギン』叢文閣 1921
アレクセイ・トルストイ『村の悲劇』世界思潮研究会, 1922
レフ・トルストイ『悲恋の曲?クロイツェル・ソナタ』1922、のち岩波文庫
『最後の一線 アルツイバアシエフ全集』精芸社、1922
アンドレェエフ『イスカリオテのユダ』新潮社, 1924