簡王9年(紀元前423年)、簡王は昜為に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は宜陽を奪い、赤岸を包囲して、黄池の役に報復した。晋の魏斯・趙浣・韓啓章が軍を率いて赤岸を救援したので、楚軍は包囲を解いて撤退した。晋軍と長城で戦って楚軍は敗れ、多くの物資を遺棄して逃走した[1]。簡王14年(紀元前418年)、南方で大土木工事を興したことで、楚の国人に憎まれ、焦工尹の子期が死んだ。簡王15年(紀元前417年)、令尹の子春が死去。簡王は城父公屈恒に郢の徙を率いさせて、陳から郢にやってこさせた。城父公屈恒が死去。司馬の昭?が陽?に城を築かせた。簡王16年(紀元前416年)、昭甲が罪を得て滅んだ[5]。簡王19年(紀元前413年)、楚軍が晋を攻撃して上洛に達した[6]。
簡王24年(紀元前408年)、簡王が薨去し、子の声王が楚王に即位した[4]。
脚注^ a b 『清華簡』「繋年」21章
^ 『上海博物館蔵戦国楚竹書』「柬大王泊旱」
^ 『史記』楚世家による。同書六国年表では、仲とする
^ a b 『史記』楚世家
^ 『北京大学蔵西漢竹書』「堪輿」
^ 『古本竹書紀年』晋紀烈公3年