篤姫_(NHK大河ドラマ)
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全50回の平均視聴率は24.5%(視聴率は関東地区ビデオリサーチ社調べ)で、幕末を舞台とした大河ドラマとして過去最高、過去10年の大河ドラマとしても、2002年の『利家とまつ』の22.1%を抜いて、最高の視聴率となった。また、同年の年末に3夜連続で総集編が放送された。(12月26日から28日)

篤姫の地元・鹿児島地区では、第2回の視聴率が29.3%を記録[3](初回は測定対象外)、その後もほぼ30%台を維持し、第36回には41.9%を記録した[4]
その他の影響

放送を機に、幕末の薩摩藩史に関する再検証が活発となり、それまで謎とされてきた篤姫付き老女“幾島”の詳細な経歴や、篤姫の江戸行き道中が本州では陸路であったことなどが判明した。さらに、西郷隆盛、大久保利通らの陰に隠れがちであった小松帯刀の存在についても、改めて注目を集めることとなった。
あらすじ

《第一回》天明の子

今泉島津家に生まれた於一(おかつ)は、天真爛漫な女の子。色んなことに興味を持ち、いつも周りの付き人達を振り回していた。そんなある日、遊びに行った先で、空腹で倒れている農民に出会い、自分の幸福な身の上に対し疑問を持つようになる。悩む於一は食事を取らないことで農民と苦しみを分かち合おうとするが、母の幸から人には人の役割があることを教えられる。

《第ニ回》桜島の誓い

薩摩藩では調所広郷のもと、厳しい財政改革が進められていた。その最中、今泉島津家は財政改革がきっかけで厳しい立場に置かれることになる。調所の政策によって、庶民や今泉島津家が苦しめられている状況に心を痛めた於一は、調所のところへ抗議のため乗り込んでいく。しかしそこで於一は批判的に思っていた調所の行動にもそうするべき理由があること、そして調所を通じて「人の役割」とそれを超える「天命」について考えることになる。

《第三回》薩摩分裂

薩摩藩主の後継をめぐる、お由羅騒動が勃発し、家臣たちも対立を極めていた。そんな中、騒動に巻き込まれた大久保正助が謹慎になる。生活が困窮を極める大久保家を助けようと於一は奔走するが、やりすきてしまい、正助の母に断られてしまう。正助の母の誇りを傷つけたと落ち込む於一だったが、それに対して母のお幸は、それは於一のおごりだと諭すのだった。

《第四回》名君怒る

お家騒動が落ち着き、島津斉彬が藩主となった。藩内の対立にも決着がつき、処分されていたものたちも解放されるかと思われたが、すぐには改善されなかった。そんな中、於一たち今泉島津家は他の分家と共に城に招かれ、斉彬と対面することに。粗相の無いように練習を重ねてきた於一だったが、対面の時に「なぜ大久保たちは解放されないのか」といった質問をしてしまい、その視野の狭さに斉彬から叱責される。

《第五回》日本一の男

斉彬に呼ばれて城にのぼった於一は、そこで島津忠教の息子に見初められる。しかし、お由羅騒動で対立していた相手方からの縁談に、於一の父・忠剛はあまり乗り気になれない。そんな中、於一の友人の肝付尚五郎は於一にどんな人と結婚したいかを尋ねる。すると於一は「日本一の男」だと答えるのだった。於一に思いを寄せる尚五郎は忠剛に於一との縁談を頼み、忠剛も了承するが、その後於一は斉彬の養女になることが決まり、尚五郎は失恋する。

《第六回》女の道

斉彬の養女になるという話を聞き、於一は動揺する。自分が選ばれた理由がわからず困惑する於一は、斉彬へ理由を聞きにいくことに。一方で失恋した尚五郎は、手の届かないところへ於一がいってしまうことを知り、失意のどん底にいた。藩主の養女になれるという願ってもない好機を前に、煮え切らない於一に向かって、乳母の菊本は「女の道は一本道。引き返すは恥」と告げる。そして、身分の低い菊本は、自分が於一の教育をしてきたことが、やがて於一の人生の汚点になってしまうことを危惧し、自害することで於一の人生からその存在を消すのだった。

《第七回》父の涙

仕えた姫のために自身の命も差し出すその菊本の強い生き方を見た於一は斉彬の養女として生きていく決意をする。一方、斉彬も幕府での改革のため、於一を早く自分の元へ迎えようとしていた。そしてついに於一が今泉島津家を去る日がやってくる。父・忠剛は、寂しい思いを抑えて、斉彬の元へと向かう於一を送り出していった。

《第八回》お姫様教育

本家の養女となった於一は、立派な本家の姫となれるよう、奥女中たちから日々厳しい教育をされていた。その堅苦しい日々に息苦しさを感じる於一は、なかなかその環境に馴染めない。その上、何もできない自分が、分家の出だとして笑われているような気がして、辛い日々を送っていた。しかしそんな日々の中でも、於一は城に呼び寄せた、知り合いのお近から大久保正助が謹慎を解かれたことを聞き、喜ぶ。一方その頃、斉彬は於一の教育のため、近衛家にいる待女・幾島へ於一の元へ来てもらえるように頼んでいた。

《第九回》篤姫誕生

京から幾島がやってきたことで、日々の教育は厳しさを増していった。そんな中、於一は斉彬から新しい名前をもらう。広大院にあやかってつけられたその名前こそ、「篤子」ーー篤姫の誕生だった。篤姫の教育をする幾島だったが、到底出来がいいとはいえない篤姫を見て、どうして斉彬が篤姫を選んだのか、なぜこれほど熱心に教育をさせるのか理解ができずにいた。幾島からの疑問に、斉彬は将軍への輿入れという壮大な計画を打ち明ける。一方江戸では、将軍・徳川家慶が亡くなり、その子の家祥が後を継ぐことが決まっていた。

《第十回》御台所への決心

幾島とウマの合わない篤姫は、いつも幾島へ反発する。なかなか変わらない篤姫に困った幾島は、斉彬へ篤姫に対して将軍家輿入れの件を告げるように頼む。ある日、耐えかねた篤姫は城を脱出しようと試みるが、失敗。その後、斉彬は意を決して篤姫へ、篤姫を御台所としようとしていること、それをきっかけに幕政を立て直したいことを語る。斉彬の思いに心を動かされた篤姫は、その日から心を入れ替え、御台所となれるよう日々精進していく。

《第十一回》七夕の再会

将軍家に関する書物を全て集めさせるなど、日々余念なく励む篤姫。そんな中、斉彬の優しさにより、肝付尚五郎と七夕の日に再会することが叶う。大切な友人との再会に胸弾む篤姫は、尚五郎とかつてのように囲碁をし、今泉島津家のことや薩摩のことを頼むのだった。篤姫の変化を感じ、いよいよ本当に遠くに行ってしまうことを感じ、尚五郎は切なくなるのだった。

《第十二回》さらば桜島

まずは薩摩を離れ、京へ向かうことが決まった篤姫は、家中のものたちへ斉彬の娘としてお披露目される。そのお披露目の場こそ、実家の家族や尚五郎との最後の別れの場だった。久々の再会をとても楽しみにしていた篤姫だったが、実の両親・兄弟・友人でありながらかつてのように話すことのできない実情に次第に涙が溢れ出てしまった。あまりの落胆ぶりに見かねた幾島は、最後に今泉島津家の家族と対面する場を設け、篤姫は両親と兄弟と束の間の安らぎの時間を得る。そして旅立ちの日が来ると、篤姫は今泉島津家と桜島に別れを告げ、寂しさを胸に京へと向かう。その姿を見にきた尚五郎は、最後の別れに心を痛めながら、笑顔で篤姫を見送る。篤姫にとってこれが薩摩との終生の別れとなった。

《第十三回》江戸の母君

壮絶な船旅も耐え、やっとの思いで京へ辿り着いた篤姫一行。養子縁組予定の近衛邸に入り、和やかな日々を過ごす。このまま江戸へ移り、篤姫を御台所とするつもりだった幾島だが、近衛邸の待女から、将軍家への輿入れは未確定なのだという衝撃の事実を伝えられる。一方篤姫は、江戸にいる養母(斉彬の正妻)から気遣いを受け、喜んでいた。江戸の母との会うことを楽しみに江戸へ向かった篤姫だったが、実際に会ってみると冷たく扱われ、動揺する。その上、御三卿出身の母から、島津家の分家の出のものが御台所など誰にも認められないだろうと突き放されてしまうのだった。


《第十四回》父の願い

江戸の母・英姫から、御台所にはなれないと言われた篤姫は、同様の日々を送っていた。一橋派の大名の中にも島津家の分家の出である篤姫の輿入れに反対する声は多く、困難を極めていた。ちょうどその頃、江戸城では家祥が家定と名前を変え、将軍の座につくことで新しい時代が始まっていた。ペリーの再来航など落ち着かない日々が続く中、薩摩では篤姫の実父・忠剛がなくなる。篤姫には伝えないでほしいと願う忠剛だったが、篤姫の前では嘘がつけず、斉彬は忠剛の死を伝えてしまうのだった。


《第十五回》姫、出陣

自分も江戸での斉彬への奉公を願っていた尚五郎だったが、実際に選ばれたのは西郷であり、尚五郎は落ち込む。一方、西郷は篤姫の輿入れ道具を選定する役目を任され、江戸の薩摩藩邸で篤姫との久々の再会を果たしていた。薩摩藩邸で暮らす斉彬の実子と親しく暮らす篤姫だったが、ある日嫡男の虎寿丸が亡くなってしまう。さらに斉彬も倒れ、その容体は一向に回復しない。あまりの不幸の連続に、藩内ではお由羅の呪詛ではないかという噂が立っていた。篤姫は真偽を確かめるため、前藩主とその側室・お由羅の元へ向かう。
登場人物
主人公とその一族
主人公
天璋院(てんしょういん)
(於一敬子→篤姫→天璋院)演:宮アあおい(幼少:永井穂花 少女:岩本千波)島津氏の分家・今和泉家に生まれ、於一(おかつ)と命名される。囲碁や史書を詠むことを好み、男子の通う塾に男装して潜り込んだり、下級藩士と身分の差を越えて交流するなど型破りな行動を繰り返す。その行動力が藩主・島津斉彬の目に留まり、島津宗家の養女として鶴丸城に迎えられる。その際に斉彬に篤姫の名を与えられ、斉彬からは篤子(あつこ)と呼ばれるようになる。老女・幾島に宗家の姫としての立ち居振舞いを教育され、斉彬から一橋慶喜を将軍継嗣にすべく密命を受けて将軍・家定の御台所として大奥に入る。しかし、南紀派が多数を占める大奥での慶喜擁立工作は難航し、また篤姫自身、慶喜よりも対抗馬の慶福(家茂)に好印象を持ったことから苦悩することになる。一度は幾島の懇願に折れて慶喜を推薦するものの、最終的には「嫁いだからには自分は徳川将軍家の人間である」として家定の意向に従うことを決意する。家定の死後は落飾して天璋院と号する。亡き夫の遺言に従って若き将軍・家茂を後見して徳川家を護ってゆこうとするが、大奥の政治介入を嫌う大老・井伊直弼と対立する。しかし、井伊の信念の強さと決断力は高く評価していた。和宮が家茂の御台所として大奥に入ると、京出身の女官達と大奥女中たちの対立に巻き込まれるが、柔軟な姿勢を貫きつつ大御台所として両者の関係調整に腐心し、すれ違いながらも和宮との仲は少しずつ雪解けしていく事になる。また生家の薩摩藩が武力を以って幕府に改革を迫ると、その繋がりを疑われ苦悩する。長州征伐に赴いた家茂の無事をひたすら祈っていたが、その甲斐もなく家茂は死去。家茂の死後、その後を継いだ慶喜が朝廷に大政奉還を断行すると大いに困惑するが、勝麟太郎に戦を避けるために帯刀や坂本龍馬が奔走していた事を知ると、大奥と徳川家は自分が守る事を表明し、静寛院宮や本寿院の支持を得て大奥を纏めた。薩長との戦に敗れ退却してきた慶喜に、個人的な感情を抑えて家族として慶喜を救う事を約束する。江戸総攻撃の直前、勝に養父斉彬の書状を持たせて西郷の心を動かし、遂に江戸城無血開城へと導いた。そして江戸城の明け渡しを前に混乱する奥女中たちには、全員の行く先は自らが責任を持つと宣言した。大奥を出てからは一橋邸をはじめ東京の各地を転々とする。薩摩の人々との再会とその死別を経験しながら、徳川家を継いだ徳川家達の教育に尽くした。家達の妻となった近衛家出身の泰子の懐妊を肌着を縫って見守りつつ、東京・千駄ヶ谷の徳川邸で静かに亡くなった。
今和泉島津家
島津忠剛(しまづ ただたけ)
演:長塚京三篤姫の父。今和泉家の当主。今和泉領主。通称は安芸(あき)。重税に苦しむ領民を気遣い、調所の進める藩政改革との板挟みになる。その為、お由羅騒動の際には斉彬の家督相続を支持した。斉彬の藩政改革にも協力し、今和泉領内への砲台建築を指揮する。お幸との仲睦まじさに、篤姫は理想の夫婦像をみていた。子供たちにも愛情を注いでおり、特に於一(篤姫)には、そのお転婆ぶりに困惑しながらも期待し、かわいがっていたが、面と向かっては厳しく接しようとして不器用な愛情表現を見せる。一時は於一を娶りたいという肝付尚五郎の意思に心を動かされるが、於一を斉彬の養女に望まれると、涙を堪えて笑顔で娘を送り出した。篤姫が江戸に旅立つ際は重病の身をおして見送りに出た。続いて江戸に発つ斉彬に「娘に余計な心配をさせぬため、自分の死は伏せて欲しい」と遺言し、間もなく亡くなった。
お幸(おゆき)
演:樋口可南子篤姫の母。篤姫懐妊中に夢で見知らぬ老人に「その娘を江戸に連れて参る」と言われたことから、生まれてくるのが娘であり、その娘が大きな運命を背負っていることを直感する。その言動で於一に“武家の女としての心構え”“人の上に立つ者のあり方”を示し、彼女の人格形成に大きな影響を与えた。篤姫が江戸に行き、大奥に上がってからもしきりに心配をしている。薩摩藩と幕府の間の戦が濃厚となると、帯刀に天璋院に薩摩へ帰るように文を書くように請われる。


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