篠島
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篠島からは頑丈で良質な岩が取れるため、加藤清正名古屋城築城の際に篠島から石を切り出し、愛知県立内海高校篠島分校跡近くに名残(清正の枕石)が残っている[6]
近世・近代[ソースを編集]

篠島村
廃止日1961年6月1日
廃止理由合併
内海町豊浜町師崎町・篠島村・日間賀島村・→南知多町
現在の自治体南知多町
廃止時点のデータ
日本
地方中部地方東海地方
都道府県愛知県
知多郡
面積0.68 km2.
総人口3,403人
(1960年(国勢調査))
篠島村役場
所在地愛知県愛知県知多郡篠島村字神戸160
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知多半島師崎と篠島を空撮(2023年)

慶長元年(1596年)には徳川家康が悪天候のために篠島で足止めされたが、板谷金兵衛が吉田(現豊橋市)まで無事に送り届け、その報償として駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・紀伊の計7ヶ国における漁業権、渥美半島の外浜と西浜の営業権(総称して「金べさのお墨付き」)を得たという伝承が残っている[26][3]江戸時代には尾張藩の流刑地であり[21][12]、数十人が篠島に流された[11]。江戸時代には漁業とともに海運業を営む島民が多かった。

明治時代になると沿岸漁業・近海漁業が盛んとなった[3]。1876年(明治9年)には本土の師崎村や日間賀島村と合併して鴻崎村(こうざきむら[27])となったが、1881年(明治14年)に再び三村に分離して単独で篠島村となった[18][11]。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、知多郡篠島村として村制を敷いた。1900年(明治33年)、愛知県立水産試験場が一色町から篠島に移転[17]。1933年(昭和8年)には篠島港が完成し、1934年(昭和9年)には海底市外電話が敷設され、1947年(昭和22年)には海底送電ケーブルで知多半島からの送電が開始された[18]。1940年代半ばには付近を立て続けに大地震(東南海地震三河地震南海地震)が襲ったのだが、もっとも篠島に印象を与えたという三河地震でも家屋の倒壊はなかったようである[28]
現代[ソースを編集]

1953年(昭和28年)の台風13号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では篠島も甚大な被害を受けた。1957年(昭和32年)には離島振興法の第7次指定地域となり、日間賀島佐久島とともに「愛知三島」という指定地域名が付けられた[29][注 7]。1961年(昭和36年)6月1日、内海町豊浜町師崎町の本土3町と篠島村・日間賀島村の離島2村が合併して南知多町となった[18]。かつては水不足に悩まされたが、1973年(昭和48年)に齋藤進らによって本土の愛知用水から日間賀島・篠島まで海底水道が伸び、真水を必要とするノリ養殖業が盛んとなるとともに[25]、民宿が増加して観光地化が進んだ[12]。1973年時点の面積は0.68km2だったが、1974年(昭和49年)から島北部で本島と属島ふたつ(中手島・小磯島)を繋ぐ0.17km2の埋め立て工事が行われ[1]、1977年(昭和52年)には0.93km2まで拡大した[10]。埋立地一帯は魚介類が豊富な漁場だったが、島の総面積の25%にも相当する埋立地造成計画は大きな反対もなく進められ、造成地には旧来からの一等地よりも高値がついた[30]

1958年(昭和33年)4月には三河湾国定公園に指定され、1991年(平成3年)には三河湾地域リゾート整備構想の重点整備地区に指定されている[29]。いわゆる平成の大合併の際には南知多町・美浜町の任意合併協議会が設置されたが、南セントレア市という新市名候補に両町の住民が拒否反応を示して合併自体が不成立となった[31][32]。現在の電気・水道・電話の普及率は100%であり、2002年(平成14年)からし尿と廃棄物の処理は知多半島で行なっている[1]。2011年(平成23年)9月から12月にかけて、愛知県は三河湾三島で「あいちの離島80日間チャレンジ」[注 8]という離島観光振興キャンペーンを行なった[33]。篠島には34歳の女性フリーライターが80日間滞在し、漁師をメインに据えたPR雑誌の制作などの活動を行なった[34][35]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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