篆書体
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また後漢代の「祀三公山碑」や「嵩山三闕銘」、三国時代における「天発神讖碑」「封禅国山碑」のように碑も少数ながら存在したが、いずれも天や神への願文や天のお告げを示した内容で、小篆の権力性がいつの間にか天や神に通じる性質のものへ拡大され、「神へ祈るための文字」として認識されるようになっていたことが分かる。漢代以降、小篆は、その字形や権力性から性質が変化することで、ごく一部を除いて装飾や祭祀のための特殊な文字として認識されるようになった。

そのような認識の変化がやがて文字そのものにも及ぶ。当初、漢代ではから時代が遠くないこともあり、せいぜい隷書の書き方が入ったり線を角ばらせたりする程度の変化や崩れで済んでいた(漢篆)。しかし漢末や六朝時代以降になると完全に混沌状態になり、小篆から大量の装飾書体が生まれるなど、どんどん本来の姿から遠ざかっていくことになる。

その中でわずかに後漢代、訓詁学の第一人者の許慎が、儒学研究の一環として小篆を「古代文字」として真正面から扱い、小篆を中心とした字書『説文解字』をものして字義などの解釈をなしたが、あくまで学問的追究であり、書における展開は見られなかった。
書・印用字体としての再興

このように姿まで変化させられ、日陰者として細々と命を永らえていた小篆であったが、代以降再び脚光を浴びることになる。

唐の中ごろ、詩人の韓愈らが六朝の四六駢儷文を否定し古文復興運動を行った影響で、書道にも王羲之以前、すなわち隷書以前を志向する復古主義的な気運が生まれた。

そのような風潮の中、小篆は李陽冰などによって大きく注目されることになり、それまでの崩れた書法を排した、本来の姿に近い小篆による書道作品や石刻が多く使われるに至った。これにより、小篆は書道界に一書体として再興することになる。

五代十国時代南唐および代には、徐鉉徐?兄弟により『説文解字』の校訂・注釈が行われ、現在見られる『説文解字』のテキスト(大徐本)が作られるとともに、小篆による書道も引き継がれた。下関条約の漢文版。「皇帝之寶」の印璽。漢字と満洲文字 (?????
?????? han i boobai)の篆書が刻まれている


またこの宋代以降、古印を収蔵し鑑賞する趣味が発達したことも、小篆含む篆書への関心を深める要因となった。官印、または作品の製作者や収蔵家が所有権を誇示するために押した印章には、篆書で官職名、もしくは本人の名や座右の銘を彫っているものが多かったからである。代以降はこの篆書を用いた印章を彫る作業も、「篆刻」という書道の一ジャンルとして確立された。

代においては、考証学の発達により模刻や模写を重ねている紙の法帖よりも当時の姿を留める碑の方が書蹟として信頼性が高いとの考えから、碑の研究が主流となったため、それに伴って碑しかない時代の文字であった篆書も研究・書作が再び盛んとなり、書・篆刻ともに優れた作品が残されている。また、満洲文字などの篆書もつくられた。

現代においても書作品・篆刻作品の他、「公的証明」の役割の名残として印章に用いられることが多い。
関連する書体
秦の八体・新の六体関連

許慎が著したそのままの形を伝えるテキストは存在しないが、『説文解字』序文によれば、では公式書体として大篆・小篆・刻符・虫書(ちゅうしょ)・?印(ぼいん、「?」は「募」の「力」を「手」に変えた字)・署書・殳書(しゅしょ)・隷書の8つを定めていたという(秦の八体)。許慎から700年近くが経過した残巻は、懸針体という細長い書体が使われており、これが篆書体の初期形ともされている。

また前漢簒奪を建てた王莽は、公式書体制定の際にこの八体を整理、古文・奇字・篆書・隷書・繆篆(びゅうてん)・鳥虫書(ちょうちゅうしょ)の6つにしたといわれている(新の六体)。

これら秦の八体・新の六体は、いずれも何らかの形で小篆と類縁関係にある書体であった。このうち代表的なものを以下に挙げる。
大篆


秦の八体の第一に挙げられる。小篆の元となった書体で、小篆と対をなす名称。石鼓文に用いられた書体である。上述の通り、元が西周の公式文字・籀文であるという説があることから、籀文と同一視されるが詳らかではない。

字形は小篆と比べると装飾性が高く、文字全体のバランスも完全な方形ではないことが多い。金文の特徴を強く残す文字であるが、一方で画に平行部が多く見られるなど小篆の萌芽も見られる。
印篆

秦の八体に第五・?印、新の六体に第五・繆篆として挙げる字体。その名の通り、印章用に特化した小篆のことである。現在見るような形の印篆が成立したのは代以降とみられる。なお、漢代に完成したため「漢篆」の一書体に数えられることもある。

縦に長い小篆を印の正方形に収めるため、小篆の曲線部分や長くはみ出す部分を直線・折線で表現したもので、有機的な形の小篆よりも角ばり、さらに整然とした印象を受ける。
鳥蟲篆詳細は「鳥蟲書」を参照

秦の八体に第七・殳書、新の六体に第六・鳥蟲書として挙げる字体。春秋時代から代にかけて矛など武具の装飾用に用いられた、極めて装飾性の高い書体である。

字形はうねうねと蛇のようにくねった細い線で構成される単純なもの、鳥の頭や姿を模した飾りが画の端々についているもの、さらに文字の原形を留めないほど無理矢理に鳥の形に変形させたものなどさまざまで、そのほとんどが文様化して解読不能である。
後世の派生書体
九畳篆九畳篆(和漢三才図会より)

代以降の各王朝、また異民族王朝のにおいて官印に用いられた小篆。単に「畳篆」ともいう。小篆ないしは印篆の画を長く伸ばし、幾重にもぐねぐねと曲げて装飾性を高めた書体である。

装飾部の折れ線が印面を埋め尽くすように布字されるため、細かい線がずらずらと並んでいるようにしか見えないことが多く、判読性は限りなく低い。実用よりも官印の権威を示す役割を重視したものである。

なおこの九畳篆の登場により官印の意匠が完全に硬直化してしまい、以後の官印は書道・美術の方面からは顧みられなくなった。
新の小篆

前漢簒奪して建てられたでは、皇帝王莽の盲目的な復古主義の影響で公式書体に小篆が採用された。の文字政策を模倣したもので、事実度量衡を改正の上、標準器に公式証明文「嘉量銘」を小篆で刻んで全国に配布するという秦代そのままの政策が行われている。

字形は通常の小篆の縦に細長い辞界を守りながら、一方で曲線部分を極端なまでに角張らせているのが特徴で、小篆と印篆の間を取ったような独特の雰囲気の字形になっている。線も極めて細い。
呉の小篆


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