箱根用水
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高堰[11]

穴堰[11]

今堰[11]

絹田堰[11]

秋次堰[11]

挟間堰[11]

御前堰[11]

舞台堰[11]

大割堰[11]

弥次郎堰[11]

開キ[11]

西海道堰[11]

八反田堰[11]

雨降堰[11]

谷口堰[11]

右近田堰[11]

窪田堰[11]

本宿堰[11]

ニタ松田堰[11]

柊堰[11]

六反田堰[11]

峠田堰[11]

経塚堰[11]

久根内堰[11]


水窪大堰

三俣堰

用水の利用

深良用水は、農業用水としての利用だけでなく、生活用水、産業用水、防火用水としても利用されている[12]
水力発電事業

産業革命の進展とともに電力の需要が高まり芦ノ湖を水源とする深良川は年間を通して安定的な水量を得られることから水力発電事業に適していた為、明治時代中期から水力発電所の設立が計画された[13]。東京電燈株式会社が1922年(大正11年)11月に第1発電所、第2発電所を、翌年に第3発電所を完成させ、現在は東京発電株式会社が発電所を運営している[13]。隧道(ずいどう)の穴口で発電用に取り込まれた水は、第1、第2、第3発電所を経由して、最後は深良川に戻される。過去には、深良川の新田橋に小規模発電施設があったが現在は撤去されて存在しない[13]
現在の運用

現在、深良用水隧道や堰など、深良用水に関する施設の維持管理は、1957年(昭和32年)2月発足(名称変更)の静岡県芦湖水利組合(管理者:裾野市長、副管理者:長泉町長)が中心となり行っている[14]。上郷・中郷・下郷への水配については、水利組合や、上郷・中郷・下郷からそれぞれ選出された水配人によって実施されている[15]
深良用水の歴史

富士山は成層火山のため、その雪解け水は富士山やその麓の地下を通って少し離れた場所に湧出しているが、他方で麓の一帯の表層部は火山灰を含む地質で水もちが悪かったが、その一部である駿河国深良村(現在の静岡県裾野市深良地区)の農民たちは黄瀬川の水を用水とし水田と畑地に利用していた。年貢米の石高増産を目的として、箱根外輪山に隧道を掘って芦ノ湖の水を新川経由で黄瀬川に混ぜて用水に利用し、深良地域の畑地の水田化を目指した。即ち畑成田を増やしたのである。その工事の請負人が友野與右衛門をはじめとする江戸の商人達であった。

芦ノ湖側と深良側の両方から手作業のみで掘り進めた。この2本のトンネルが出会った地点に1mほどの段差があるが、上流の芦ノ湖側は高めに、下流の深良側は低めに掘り進め当初の計画通りに出来上がった。(設計者は、トンネルの連結部で上流側が低く下流側が高くなる事を恐れた為である。)建設機械やコンピュータもない時代、当時の土木工事や測量の技術の高さを物語っている。また、作業者が酸欠にならないよう、トンネルの途中には息抜き穴も備えている[16]
概略

水不足に苦しみ米づくりができない厳しい駿東のために、深良村名主大庭源之丞は芦ノ湖からトンネルを掘り湖水を導くことを考えていた。大庭源之丞は、江戸で商売をしており新田開発の経験のある友野与右衛門の協力も得ることとなり、友野与右衛門は寛文3年(1663年)に箱根権現にトンネル開墾の祈願を行った。友野与右衛門、長浜半兵衛、尼崎嘉右衛門、浅井次郎兵衛の4名は、小田原藩と沼津藩の開発請負手形を提出し許可を得て、寛文6年(1666年)から寛文10年(1670年)までかけて掘り抜き工事を実施し深良用水は完成した[17][18][19]。トンネルを掘って導くことは、当時としては高い技術と知識が必要で、費用も多額にかかったとされる[18]。一方、駿河國新風土記や駿河志料によると、小田原藩御厨代官所の小山源兵衛によって立案され、稲葉家引き送り書(貞享3年)に記載されている江戸の町人4名の者達、即ち浅井佐次右衛門、友野与右衛門、須崎源右衛門、橋本山入らが請け負った町人請負の新田開発であったという説もある。この説の場合では、掘抜き工事は、小田原藩用水奉行小山源兵衛の指揮のもとに寛文6年7月に始まり、寛文10年4月に掘抜きが完成し、寛文11年5月に初めて通水し、寛文12年5月になって十分な水量の用水が、芦ノ湖より深良村へ流下するようになったとされる。また芦ノ湖を御手洗之池として所領していた箱根権現へは、当時小田原藩より実質的な補償金の代替として、社殿などの大掛かりな普請がなされた。それが現在、箱根神社宝物殿に展示されている「寛文七年棟札」によって明らかなる箱根権現寛文大修造とされる。
逆川事件

早川の村々から芦ノ湖の水を利用したいという要望があり、1895年明治28年)11月に仙石原村村長から静岡県に水引用の願出をしたが、不許可となった。これが原因となり、逆川事件へとつながった[20]1896年(明治29年)4月12日に、水利組合の見回り人の勝又勇蔵は、耕牧舎支配人須永伝蔵と仙石原農民達が、深良用水の水確保のために静岡県側水利組合が設けていた湖尻逆川(さかさがわ)人口河床(甲羅伏せ)を、破壊しているのを目撃し、水管理者の静岡県小泉村長に報告する「逆川事件」が発生した。1896年(明治29年)5月1日に沼津警察署長警部宛てに告訴状が提出され訴訟となり、横浜地方裁判所は被告無罪としたが、用水管理者は上告し東京控訴院は棄却という結果になった。原院検事長の野村維章は、東京控訴院の判断内容を検討し、水利の権利を破壊する行為として大審院に上告し、1898年(明治31年)に、大審院判決により、静岡県の深良村外六ケ村水利組合が勝訴した[21][22]。大審院判決が決定する少し前から、静岡県知事の千家尊福の依頼により冨田鉄之助は和解調停と進め、和解決定之証を作成した。主な条件として、芦ノ湖の水や水門に関する権利は、従来通り、深良村外6ヶ村に専属することを確認し、芦ノ湖の貯水量を現在より2尺増やす堤防か防波石垣工事をすることを条件に、深良用水の10分の1を仙石原村外七ヶ町村へ字逆川口より分水することとして、和解式はしたが、工事も分水も行われなかった[23]
世界かんがい施設遺産、疏水百選

日本を代表する用水のひとつとして2005年(平成17年)農林水産省疏水百選に選定された[24]2014年(平成26年)9月に開催された国際かんがい排水委員会(ICID)総会・国際執行理事会においてかんがい施設遺産に登録された[25]。世界かんがい施設遺産は2014年(平成26年)に創設された取り組みで、登録対象は建設から100年以上経過している施設などであり、深良用水の歴史的・技術的・社会的価値が評価された[24]

深良用水疏水百選認定証


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