当時、算術が普及せずにその知識を有する者が少なかったために官位こそは低いものの、及第して官人となった算生の持つ数的処理能力に諸官司から期待されるところは大きかった。ただし、それは技能としての算術・数学であって、数学的思考や教養、感性が求められたものではなく、ましてや中国に見られたような高等数学が当時の日本社会で必要とされる場面は存在しなかったと考えられ、日本数学史が独自の進歩を見せるきっかけにはなりえなかったのである。 大学寮が設置された当初、一般官人を育てる本科(明経道)と技術官人を育てる算道しか事実上存在していなかったが、神亀年間に律令を教える律学博士(後の明法博士)と歴史を教える文章博士が明経道から分離する形で成立し、やがて天平年間に独立した学科となり、後の明法道・紀伝道へと発展することとなる。 こうした中で算道の地位はそれまでと大きく変動することもなく、結果的に上昇傾向にあった明法道・紀伝道とは相対的に見て地位が低下することとなった。その発端は延暦21年(802年)に明法生を増やすために算生の定数を30から20に減少させたことである。続いて律令制の衰退に伴う地方政治の紊乱によって算道に対する需要が減少していくことになる。更に他の学科でも同様であったが、算博士の推薦を受けて成業(得業生及び奉試及第)の見込みのない者を無試験で地方国司や京官の下級役人に推挙する算道挙・算道年挙が行われるようになったり、一般の算生でも一定の条件を満たせば得業生に準じた奉試受験資格を得て試験を受けることが出来るようになった(准得業生試)。こうした状況下では、算道は実質上明経道に吸収された書道・音道に代わって成立した紀伝・明経・明法・算の4道の中で最下位に転落することとなった。 更に算博士も必ず主税寮か主計寮の頭か助を兼務して更に2名中1名は五位史[6]を兼ねることになった(『官職秘抄』)。これは、算博士の職掌が次第に算生の教育よりも中央の財務・経理官人としての職務に移りつつあったことの反映であった。貞観13年(871年)に算博士の官位相当が正七位下に引き上げられたのも、算道の衰退にもかかわらず算博士の算道以外の職務が重視された結果であった。この頃になると、算博士の世襲化が進み算道によって奉試に合格するとともに、譜第の家系であることが算博士就任の要件とされるようになり、当初は家原氏
算道の衰退
こうして、算道は世襲による閉鎖的な学術となって、日本数学史は停滞の時代を迎えた。『今昔物語集』巻24第22及び『宇治拾遺物語』185話に登場する高階俊平入道の弟が算道で人の生死を操って、人々から「おそろしき算の道」と恐れられたとされる話は最早、算術・数学が科学どころか学問ではなく、呪術として人々に怖れ嫌悪されていった実情を示していた。
日本の数学が「和算」の姿にて再び学問として復活するのは、近世初期の『塵劫記』の時代以後のことになる。
脚注^ 大学寮において学科が明確にされる(「算道」の呼称使用の開始)のは、平安時代の貞観年間とされている。それ以前は「算科」の呼称が用いられていたと考えられているが、本項目では「算道」で記述を統一させる。
^ 例えば、『続日本紀』養老5年正月甲戌(1月27日)条に「算術の名手」として表彰を受けた山口忌寸田主・志斐連三田次・私部首石村はいずれも9年後の天平2年3月辛亥(27日)条にて、弟子を取って七曜と頒暦について教えるように命じられている。特に山口は和銅2年に作成された2つの文書に「陰陽暦博士(弘福寺水陸田目録)」「陰陽寮暦博士(観世音寺大宝四年縁起)」という署名を残している。
^ 細井浩志「奈良時代における暦算教育制度」『日本歴史』677号、2004年10月
^ a b 大隅、2010年
^ 明法道(当初は明法科)は神亀5年(728年)に文章科(後の紀伝道)とともに発足した新興の学科である。
^ 五位の位階を持つ太政官の大史・少史。
^ 近江国栗太郡の出身で同氏最初の算博士とされる阿保今雄は、後に阿保朝臣の姓を授かった(『日本三代実録』貞観17年12月27日(876年1月27日)が、嫡流の阿保氏系は早く断絶して、事情により旧姓に復したとされる今雄の子・小槻当平(延長7年(929年)没、『宇治拾遺物語』122話にも登場する)の末裔が算博士を世襲した。
^ この三善氏は算道にも通じた文章博士三善清行の子孫とされるが、系譜上清行の曾孫とされる三善氏最初の算博士三善茂明は、貞元2年5月10日(977年5月30日)に錦宿禰から三善朝臣に改姓したと伝わる(『類聚符宣抄』)ため、本当に清行と茂明に血縁関係があるのかには疑問が存在する。
^ 南北朝期の北畠親房の著書『職原鈔』によれば、小槻氏は租税会計の計算、三善氏は学問的な算道を伝えたとされる。
^ 越中射水郡出身で三善氏の養子として算博士を継いだ三善為康は博識で伝えられたが、それは算道ではなくて紀伝道の分野であり、『朝野群載』・『掌中歴』・『拾遺往生伝』などの歴史・文芸書は多く現存するにもかかわらず、唯一の数学書の著作である『三元九紫書』が散逸してしまったという事実は、算道に対する当時の関心の低さを物語っている。
参考文献
桃裕行『上代学制の研究〔修訂版〕 桃裕行著作集 1』思文閣出版、1994年 ISBN 4-7842-0841-0
伊達宗行『「数」の日本史 われわれは数とどう付き合ってきたか』日本経済新聞社、2002年 ISBN 4-532-16419-2