2007年(平成19年)3月、出版関係者が集った『本の会』主催の講演会(東京・文京区本郷)にて、社長の菊池明郎(倒産時は入社7年目の営業マン)が、『筑摩書房はどのようにして復活したのか、倒産30年の軌跡』で詳細な経緯を語った。 神田神保町の隣の神田小川町に小さな建物の本社があったが、そこを1988年に売却し、蔵前に移転した。もとは貸しビルだったが買い取り本社にした。 かつて受注業務や出荷・改装を行うサービスセンターをさいたま市北区櫛引町に置いていたが、2018年8月10日に閉鎖し、在庫管理業務は昭和図書(小学館グループの物流会社)に委託する体制に移行した。サービスセンター稼働時は刊行書籍の奥付に「在庫の問い合わせなどはそちら(サービスセンター)に連絡して下さい」とのただし書きがあった。閉鎖後は受注業務は本社営業部が直接受け持つ体制になった[4]。
「損をしてもいいから、良い本を出そう」が創業精神であったため、経営がピンチになるたびに、創業者の古田晁が自らの財産である故郷の山林を売って、赤字を補填してきた。
倒産時まで、社長が労働組合を恐れ、ボーナスを大盤振舞いし、放漫経営をしていた。
再建のために、『マーケティング重視への転換。実売率を高めていく』の方針をたてた。
まず書店からの売上スリップでデータを取り、分析、解析。やがて、POSデータの活用も行った。後に解析のためのシステムの開発も十分に行い、同業他社に比べ、早くから社内LANを導入し、全員がパソコンを持った。埼玉にある倉庫にも無線LANを使い、返品、入庫のデータを飛ばすなどした。
ロバート・キヨサキ『金持ち父さん 貧乏父さん』は当初反対が多かったが、結果として一連の著作シリーズは250万部以上が売れるベストセラーになった。
関係者による書籍
菊池明郎 『営業と経営から見た筑摩書房 出版人に聞く〈7〉』論創社、2011年、聞き手小田光雄による回想と検証
柏原成光 『本とわたしと筑摩書房』パロル舎、2009年
柏原成光 『黒衣の面目 編集の現場から』風濤社、1997年倒産・再建の経緯や、関連人物を回想している。
田中達治 『どすこい出版流通 筑摩書房「蔵前新刊どすこい」営業部通信 1999-2007』ポット出版、2008年著者(1950?2007年)は、菊池の後任の営業部長で取締役にも就いたが、2007年7月にガンで退任し数か月後に病没した。
松田哲夫 『編集狂時代』(本の雑誌社、1994年)。改訂版・新潮文庫で再刊半生記、著者は専務取締役を経て顧問、多くのマスメディアに登場。詳しい内情が記されているが、柏原や菊池とは(露骨なメディア出演や、出版路線などをめぐり)対立している。
臼田捷治編 『書影の森?筑摩書房の装幀 1940-2014』みずのわ出版、2015年装幀に関わった多くの装丁者、編集者、社内デザイナー達の足跡を紹介
創業者古田の周辺
『回想の古田晁』筑摩書房、1974年。井上達三編、非売品
改訂版 『そのひと ある出版者の肖像』臼井吉見編、径書房、1980年
野原一夫 『含羞の人 回想の古田晁』文藝春秋、1982年
塩澤実信『古田晁伝説』河出書房新社、2003年。伝記
改訂版『奇跡の出版人 古田晁伝』東洋出版、2015年
柏原成光 『友 臼井吉見と古田晃と?出版に情熱を燃やした日々』紅書房、2013年筑摩書房創立に深い関わりを持つ二人の友情を、青年期から古田の死後まで辿ったドキュメント。
本社
評論家の川本三郎は、そのエッセイの中で筑摩書房の編集者たちが神保町古書店街という偉大な図書館から離れてしまったために、資料収集・検証作業などが不便となり、色々と苦労させられた旨が述べられている。
主な書籍シリーズ
ちくま文庫
ちくま学芸文庫
ちくま新書
ちくまプリマー新書
筑摩選書
ちくま日本文学全集
ちくま日本文学
休刊・廃刊
筑摩叢書
ちくまプリマーブックス
ちくまライブラリー
関連項目
頓智
展望 (雑誌)
太宰治賞
径書房 - 「展望」編集長だった原田奈翁雄が設立
現代日本思想大系
叢書
塩尻市立図書館 - 古田の出身地で同社の刊行物の9割以上が所蔵されている
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 1964年に『1 ホメーロス』を発刊以来、数度新版を刊行、丸40年を経た2004年5月に、54冊目の『17 老子・荘子』刊行により完結
出典^ a b ⇒筑摩書房 会社概要
^ a b 株式会社筑摩書房 第94期決算公告
^ つげ義春『つげ義春日記』1983年(講談社)
^ “筑摩書房、物流業務を昭和図書に委託へ