交渉に先んじて陸軍に譲歩を承認させることを困難視した近衛は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領との日米首脳会談を企図する。会談で日米間の合意を先に形成し、その会談の場から直接天皇の裁可を求め、陸海軍の頭越しに解決しようという算段であった。しかしアメリカ側は会談自体には同意したものの、会談はあくまで最終段階と位置付け、先に事務方の交渉で実質上の合意形成をするべきであると10月2日に通告したため、近衛の目論見は外れる。
これにより国策遂行要領が開戦決意の条件とする「10月上旬において交渉の目途が立たない」状況となった。それでも外務省が新たな対米譲歩案を作成し、それを元に10月12日に近衛と豊田外相が東條陸相を説得するが、結局不調に終わる。10月14日の閣議において東條はその件を暴露した上で「感情的になるから以後首相とは会わない」と宣言する。同日、ゾルゲ事件の捜査が進展し、近衛の側近である尾崎秀実が逮捕され、ゾルゲ事件に近衛自身までもが関与しているのではないかとの観測すら窺われるに至って近衛の退陣は不可避とされ、翌15日には東條・近衛とも次期首班に東久邇宮稔彦王を推薦するが、それに木戸幸一内大臣が難色を示し未だ後継が定まらない16日に近衛は総辞職してしまった。第3次内閣は約3か月で終わったこととなる。
なお国策遂行要領については、次期首班に選ばれた東條に対する大命降下の際に、昭和天皇から「白紙還元の御諚」が言い渡され、一旦白紙から再検討することとなったため、開戦決意の期限もとりあえずは消滅した形となった。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ a b 商工大臣から転任。
^ 国務大臣(無任所)から転任。
^ 内務大臣から転任。
^ 司法大臣から転任。
出典^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和16年7月18日
^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和16年7月25日
参考文献
森山優 『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定」』 新潮選書 2012年6月
関連項目
第1次近衛内閣
第2次近衛内閣
1941年の政治
外部リンク
首相官邸 - 第3次近衛内閣
第2次近衛内閣第3次近衛内閣
1941年(昭和16年)7月18日
- 1941年(昭和16年)10月18日東條内閣
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