第2次護憲運動
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この時点で、残留組は129名、脱党組は149名であり、政友会は議員が一時で半減以下に落ち込む事態に至った。期せずして議会第一党を与党に得た清浦内閣は、31日、衆議院解散に踏み切る[5]

残った政友会は、憲政会、革新倶楽部と連携をとる。1月18日、退役陸軍中将三浦梧楼の斡旋によって高橋・加藤・犬養の三総裁が党首会談に臨み、護憲三派を結成し、「清浦内閣を倒して憲政の本義に則り、政党内閣制の確立を期すこと」で互いに合意した。我輩は前年一たび三党首の結合を計って失敗したが、今や官僚内閣の続出するを見て、黙止せられず、二たび其結合を計るの必要を感ずるに至った。……加藤と前後して高橋も来た。犬養も来た。三党首皆揃うた。ソコで我輩が一通り憲政擁護の為め、三派連合の必要を説くと、何れも異議なく賛成して、護憲三派の結合が愈愈此に成立ったのだ。……三党首の申し合わせは、憲政の本義に則り、政党内閣制の確立を期する事と云ふのであった ? 『観樹将軍回顧録』より

そして20日、三党の幹部の会合にて、以下の盟約が結ばれた。
政党内閣を確立すること

特権勢力の専横を阻止すること

以上の目的貫徹のため、将来もまた一致の行動をとること

以上の趣旨のもと、清浦内閣を否認すること

護憲三派は、関西で憲政擁護大会を開いて演説を行なうなどして大衆からの支持を呼びかけるなど、盛んに運動する。加えて、貴族院内部でも、出身母体の研究会から3名を入閣させた清浦首相に対して、他会派からの批判が湧き起こっていた。更に、当初は任期満了選挙を想定していた清浦内閣が、政友本党結党直後に解散に踏み切ったことから、選挙管理内閣としての立場を逸脱して、研究会と政友本党の支持を背景に長期政権化を狙ったものとされて、世論の硬化を招いた。このため、この解散は「懲罰解散」ないし「清浦クーデター」の名称で呼ばれるようになる。さらに、選挙の投票日は、前年の関東大震災による選挙人名簿の損傷によって延期されたが、その間に清浦内閣が護憲三派の選挙運動の妨害を図ったことから、国民各層の憤激を招いた。

そして5月10日に行なわれた第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派からは286名(憲政会152名。政友会102名。革新倶楽部30名)らが当選する。これに対して清浦内閣を支持していた政友本党は111名が当選したにとどまり、護憲三派の圧勝に終わった。6月11日、第一党総裁の加藤高明に内閣組閣の大命が下り、加藤高明内閣が発足(政友会から2名、革新倶楽部から1名入閣)。高橋内閣いらい2年ぶりに政党内閣が復活した[6]
第二次護憲運動の影響

第二次護憲運動は、大衆の関与の薄い政党中心の運動であり、その規模も第一次と較べるとあまりに小規模であった。盛り上がりを欠いた背景は様々あるが、一つの理由として、清浦内閣は翌年5月10日に予定されていた総選挙施行のための期間限定の選挙管理内閣であり、中立性に配慮した結果、政党色のない貴族院議員が占めるのは仕方がないとする見方もあったからである(先述の通り、前任の山本権兵衛が首相となった理由の一つも、選挙が迫っていたことだった)。その後、政友会が分裂し、しかも与党となった政友本党の方が規模は大きかったから、衆議院第一党を欠く運動となってしまった。さらに護憲三派の具体的な政策面での主張がはっきりせず、一致点が多くなかった点も挙げられる。普通選挙の導入には政友会がやや消極的、一方で貴族院改革には憲政会が冷ややかといった具合であった[7]

しかし憲法学者の美濃部達吉は、「長い梅雨が明けて、かすかながらも日光を望むことができたような気持ち」と、この運動を高く評価している。

加藤内閣は陸軍4個師団の廃止(いわゆる「宇垣軍縮」)や予算一億円の削減、有爵議員のうち、伯・子・男の数を150名に減らすなどの貴族院改革、外務大臣 幣原喜重郎協調外交によるソ連との国交樹立、普通選挙法および治安維持法の制定などが行なわれた。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 政友会は、原、高橋内閣時代に研究会とのパイプを築いており、研究会出身の清浦首相はこのパイプを使うことを想定していた。
^ もともと高橋は暦年の功績で華族になっており、衆議院議員としては被選挙権自体持っておらず、政友会の総裁になったのも、前任の原の暗殺を受けて、各派対立の妥協として担がれたものであった。そのため、この宣言は、以降は議会政治家として本格的に藩閥と対峙してゆくことを宣言したに等しかった。

出典^ a b c d e f 日本大百科全書(ニッポニカ)「憲政擁護運動」(コトバンク)
^ 升味, pp. 23?24.
^ 升味, pp. 24?28.
^ 升味, pp. 24?30.
^ 升味, pp. 30?33.
^ 升味, pp. 35?36.
^ 北岡伸一『政党から軍部へ』(1999年、中央公論新社)38頁

参考文献

升味準之輔『日本政治史 3 政党の凋落、総力戦体制』東京大学出版会東京都文京区、1988年7月8日。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-13-033043-8。 

関連項目

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