第2次百年戦争
Second Hundred Years' War
ワーテルローの戦い(1815年)
時1689年 - 1815年
場所ヨーロッパ, 大西洋, アフリカ, アメリカ大陸, インド亜大陸, インド洋
結果イギリスの勝利
領土の
変化
イギリスがフランス領のカナダ、インド、マルタ島、イオニア諸島、セントビンセント、ドミニカ島、セントルシア、トバゴ島、モーリシャス、セーシェルを併合した
衝突した勢力
イギリス:
イングランド王国
グレートブリテン王国
大英帝国
フランス
フランス王国
フランス共和国
フランス帝国
指揮官
ステュアート朝
ハノーヴァー朝ブルボン家
ボナパルト朝
第2次百年戦争(だいにじひゃくねんせんそう、英語: Second Hundred Years' War、フランス語: Seconde guerre de Cent Ans, 1689年 - 1815年)は、ヨーロッパ内の国境紛争と王位継承、主に北アメリカ大陸を舞台として南アジア・アフリカをふくむ海外植民地の争奪、そして、それらに起因するアメリカの独立・フランス革命・ナポレオン帝国を背景にイギリス(イングランド)とフランスの間で繰り広げられた一連の戦争の総称である。イギリスの歴史家J.R.シーリーの命名による[1]。
一連の戦争の結果、イギリスが優位に立ち、後世「パクス・ブリタニカ」と呼ばれる繁栄の時代の基礎を築いた[注釈 1]。
呼称の由来
イギリス(イングランド)とフランスの間の戦いであったこと
期間が百年余り(17世紀末葉から18世紀全体にわたり、さらに19世紀初頭)に及んでいること
以上の2点により、中世末の英仏百年戦争(1337年 - 1453年)になぞらえて呼称される。両者はともに、特定の戦争を指すのではなく、当事国同士の一連の戦争、あるいは戦争と休戦とを繰り返している状態そのものを指す呼称である点でも共通している。イギリスの歴史家ジョン・ロバート・シーリーが『英国膨張史』(1883年)のなかで名づけたのが始まりだとされている[1]。
「第2次百年戦争」の時期はまた、イギリスが覇権を築いていった一連の戦争を含む名誉革命からナポレオン戦争終結までの100年あまりの期間という意味で、「長い18世紀」と称されることもある[2]。
前史
海上権の推移
スペインの盛衰『無敵艦隊の敗北』(ラウザーバーグ画)
1571年にレパントの海戦でオスマン帝国の海軍を撃破し、同年ルソン島にマニラを建設、さらに1580年にはポルトガルを併合して新旧両大陸に広大な植民地を有し、「スペインが動けば、世界はふるえる」「太陽の沈まぬ国」とよばれたフェリペ2世(在位:1556年 - 1598年)時代のスペインだったが、1588年にはエリザベス1世(在位:1558年 - 1603年)統治下のイングランドに上陸作戦を企図したものの、アルマダの海戦で敗北を喫した[3][4]。
イングランドでは1600年に東インド会社が結成され、こののちマドラス(1639年)、ボンベイ(1661年)、さらにカルカッタ(1690年)を拠点にしてインド経営に乗り出した。北米大陸では1607年ヴァージニア会社によってヴァージニア植民地がつくられ、1619年にはタバコ・プランテーションのためヴァージニア植民地に黒人奴隷を輸入した。 いっぽう15世紀以来ハプスブルク家の所領で、カルロス1世(在位:1516年 - 1556年)・フェリペ2世の時代を通してスペイン領となっていたネーデルラントでは1568年より八十年戦争と呼ばれる長い戦いがはじまった。この戦争は無敵艦隊の敗北とともにスペイン没落の契機となった[5]。代わって世界の海上権を握ったのが1581年にスペインからの独立を宣言し、三十年戦争後のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約、1648年)で正式に独立が承認されたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であった。 オランダは1602年にオランダ東インド会社を設立して、ジャワ、スマトラ、モルッカを植民地とし、香料貿易をさかんにおこなって、その拠点をバタヴィアに置いた(1619年)。さらに、台湾南部のゼーランディア城(1624年)、北米のニューアムステルダム(1626年、オランダ西インド会社の設立は1621年)、南アフリカのケープ植民地(1652年)、南アジアではセイロン島のコロンボ(1656年)などを拠点に海外に勢力を拡大する。これによってアムステルダムはリスボンに代わって西ヨーロッパ最大の商業・金融都市として発展した。この小さな国が、スペイン世界帝国の広大な版図に食い込み、そこにみずからの覇権をうちたてていったことは驚異的な事実であり、このことはしばしば「近世史の奇跡」とも評される[5]。
オランダの勃興