第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン(だいにじブリティッシュ・インヴェイジョン、英語: Second British Invasion)は、アメリカ合衆国において人気となるイギリスのグループなどが、1982年の半ばから[1]、1986年後半にかけての時期に[2]、おもにケーブルテレビの音楽専門チャンネルMTVのおかげで多数登場した現象。この用語は、1960年代において合衆国で起こった同様の現象であったブリティッシュ・インヴェイジョンに由来している。このインベイジョン(侵略)に加わったグループなどには、広く様々なスタイルのものが含まれていたが、その中心となっていたのはシンセポップやニュー・ウェイヴの影響を受けた者たちであった。1980年代後半になると、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンに代わって、グラム・メタルやダンス・ミュージックが合衆国のチャートで上位を占めるようになっていった[2][3]。 1970年代後半から1980年代前半にかけて、イギリスの音楽は、「パンク/ニュー・ウェイヴ」革命の影響を大きく受けていた[4]。1979年はじめ、ダイアー・ストレイツの「悲しきサルタン」と[5]、ポリスの「ロクサーヌ」が『American Top 40』に入り、少し遅れてエルヴィス・コステロ[6]、スニッフ&ザ・ティアーズ
背景
既にこの時点で、ミュージック・ビデオはイギリスのテレビの音楽番組にとって5年ほど前から重要な素材となっており、映像表現に凝った短編映画のようなものに進化を遂げていた[8][9]。当時、合衆国におけるポップやロックは、聴衆の断片化やディスコ音楽への反動など、いろいろな事情を抱えてスランプに陥っていた[8][10]。合衆国勢の大部分は、ビデオを制作しておらず、作っている場合でも、コンサートにおける演奏の映像を編集したものがほとんどであった[8][9]。1981年8月1日にケーブルテレビの音楽専門チャンネルMTVが開局したとき、既に数多くそこにあったイギリスのニュー・ウェイヴのミュージック・ビデオを流すより他に選択肢はほとんどなかった[8]。バグルスの「ラジオ・スターの悲劇」は、合衆国においてMTVが最初に放送したビデオ(英語版)となった。当初、MTVは、小さな町や郊外住宅地などの一部でしか視聴できなかった。ところが、ある地域でMTVが視聴できるようになると、MTVから流れているだけのバンドなどのレコード売り上げが急伸し、ラジオ局に聴取者からのリクエスト電話がかかるという現象が起こり、音楽産業界は驚いた[8]。1981年にはまた、ロサンゼルスのラジオ局KROQ-FMが、「Rock of the '80s」というラジオ・フォーマット(英語版)を始め、ロサンゼルスで最も人気の高い放送局へと歩み始めた[9]。
さらに1981年には、ダンス・チャートでもインヴェイジョンを予感させる兆しが見えていた。『Rockpool』誌のダンス・ロック・チャートでは、トップ30にアメリカ合衆国出身のグループが7組しかいない状態となり、同年中の遅い時期には『ビルボード』誌のディスコ・チャートにイギリス勢の12インチ・シングル(英語版)が登場するようになった。特に、輸入レコードやイギリスの音楽新聞が入手しやすいマンハッタンでは、この傾向は特に強く、『ニューヨーク・ロッカー』誌は「アングロフィリア(イギリス好き)(英語版)」が合衆国のアンダーグラウンドな音楽活動を阻害していると警鐘を鳴らした[11]。
インヴェイジョン) が Billboard Hot 100 の首位に3週間とどまった。この曲は、MTVの放送から相当の追い風を受けており、『The Village Voice』誌は、「まさしく間違いなくこの時点が、MTVが拍車をかけた、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンが始まった瞬間だった」と述べた[1]。1982年9月に、MTVがメディアの大中心地であるニューヨークとロサンゼルスでも視聴できるようになると、新たな「ビデオ時代 (video era)」が広く積極的に喧伝されるようになった[8]。同年秋には、もっぱらビデオの力だけでヒットした最初の曲であるフロック・オブ・シーガルズの「アイ・ラン」(I Ran (So Far Away)) が、ビルボードのトップ10に入った[9]。やがて、デュラン・デュランの一連の艶やかなビデオが、MTVの力を象徴するようになっていった[9]。1983年には、ビリー・アイドルの「ホワイト・ウェディング」(White Wedding) と「アイズ」(Eyes Without a Face) がMTVで大きく取り上げられ、2枚目のアルバム『反逆のアイドル』(Rebel Yell) が商業的成功を収めた[12]。