この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2017年8月)
今回の会場である東京宝塚劇場の定員は2300人であったが、今回の入場券の申し込みは12万4765通であった。今回の前後しばらくは平均12万通だった。元旦の消印で年末の入場券を申し込む視聴者もいたという。そのため当日は会場前にダフ屋が出る程だった。
今回の先攻後攻は両組司会のジャンケンで決められ、結果紅組の先攻でスタートした。
前回までバックコーラスは紅組は女性・白組は男性が受け持っていたが、この回から曲によって両方受け持つようになる。(梓みちよ「渚のセニョリーナ」はレコードでのバックコーラスが男性だったので、紅白でも男性のバックコーラスを採用)
ザ・ピーナッツ「恋のフーガ」は演奏にティンパニを使っており、梓みちよ・中尾ミエ・園まり・伊東ゆかりがティンパニの生演奏で応援している。
両組トリは通算4度目のトリの組み合わせとなる美空ひばり・三波春夫。通算4度のトリでの組み合わせは第71回(2020年) - 第74回(2023年)のMISIA・福山雅治に並び最多記録である。
紅組が優勝(通算9勝9敗)。
本放送はカラー放送であるが保存されていない。本放送は、放送用ビデオテープ(2インチVTR)に収録されたと言われているが、当時のビデオテープは非常に高価で大型であるため、放送終了後に消去されて他番組に使い回された。視聴者提供の白黒VTRが現存するが、映像が全体的にぶれて大変見にくく、後年の『思い出の紅白歌合戦』(BS2)での再放送時には弘田三枝子が出演する部分など一部がカットされて放映された。ただし、九重のオープニングの宣誓場面や舟木一夫が出演する部分は映像状態が良い。写真はカラー版が現存しており、全出場歌手が舞台に整列したオープニングシーン、エンディングの投票数を数えるシーン、ステージでは北島、ピーナッツ、ひばりらの歌唱シーンが存在する。
今回使用したステージメインマイクホンは、司会者・歌手用共にSONY PC-2。
後日譚
第13回(1962年)から6年連続司会を務めてきた宮田だったが、翌年の第19回および第20回(1969年)は白組司会を坂本九に譲り、自身は総合司会を担当することになったため[3]、白組司会担当は今回で一旦ストップ。宮田は第21回(1970年) - 第24回(1973年)に白組司会に復帰した。
翌年も九重は紅組司会の候補に挙がるも、紅組司会は水前寺清子に交代となる(九重の紅組司会担当は今回1度限り)。また、前回のペギー・今回の九重は「たとえ歌手であっても司会に専念してもらう」という方針で出場歌手には非選出で司会に徹したものの、翌年の水前寺・坂本が歌手兼司会となったことでこれは解禁された。なお、九重も翌年は出場歌手として返り咲き出場を果たした。
今回で開始以来続いた組司会にNHKアナウンサーが起用される体制は一旦終了となる。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 当時は司会と歌手の兼任は原則認められていなかったが、第14回(1963年)の江利は当初司会に内定していた森光子が舞台の都合で辞退したため、特例で兼任が認められていた。
^ メンバーの植木等はソロを含めて6度目。
^ 妊娠のため、活動休止中。
^ 歌手としては辞退し、司会に専念。
出典^ 合田, p. 94.
^ 合田, pp. 94?95.
^ ここ6年間白組司会を務めた宮田と釣り合う紅組のタレント司会者の選考に苦労していたことから、宮田を総合司会とし、両組司会を「歌謡界に精通した人」「視聴者の支持を得られる人」という基準で選考を行った。その結果、水前寺清子・坂本がそれぞれ司会に選出された。