第1次大隈内閣
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特に外相ポストについて板垣は伊東巳代治、その他自由党系が星亨駐米公使を望んでいたが[10]、大隈は自ら兼務を続けたことに加え[10]、進歩党系が自由党系に比べて多数であるという内紛を抱えたままのスタートとなった[7]。また尾崎行雄文相(旧進歩党系)は第2次松方内閣で進歩党が連立入りしていた時代に勅任参事官でありながら進歩党の会議に出席したため懲戒免職処分となっており、大隈の保証によって天皇が懲戒を免除する裁可を行っている[11]

新聞紙上では松田正久蔵相・大東義徹法相は情実人事であると批判され[7]、また星は駐米公使を辞任して帰国し、倒閣に向けて動き出した[12]。また代議士が大臣だけでなく省庁の次官・局長の地位までも占めたために、行政は大混乱した[注釈 6]

8月21日、尾崎文相の共和演説事件が発生すると、星ら自由党系はこれを執拗に批判し、10月13日に自由党系は進歩党系との断絶を決める[13]。10月21日に板垣内相は尾崎文相の罷免を上奏し、また天皇も大隈に是非を問うこともなく、尾崎の辞職を求めた[14]。更に後継の文相の枠をめぐってまたも対立が起き、大隈首相の独断で進歩党系の犬養毅が就任したことで分裂は決定的となった[14]。板垣は大隈の専断に激怒し、犬養の親任式の前に明治天皇に拝謁し、大隈への不信と犬養が就任した場合には自身と自由党系閣僚の辞任を示唆した[15]。29日、星ら旧自由党系は独断で憲政党解党、自由党系のみによる「憲政党」再結党の手続きを行い、板垣内相ら自由党系三閣僚も辞表を提出した[16]。党を追い出された旧進歩党系は対抗して憲政本党を結成、大隈内閣は旧自由党系が抜けた枠を旧進歩党系で補充して、憲政本党の単独与党で政権継続しようとしたが、大隈・板垣両名に対して大命を下していた天皇は許さず、10月31日に大隈らも辞表を提出、内閣は崩壊した[17]
備考

隈板内閣は成立前から政府内で政権担当能力を危険視する意見が強かった。この首相奏薦の元老会議は御前会議として行われ、お通夜のような雰囲気の中、明治天皇は「本当に大丈夫なのか?」と何度も念を押したと語り草になっている[18]。特に、明治天皇は過去の経緯もあって大隈個人に対し不信感を持っていた[7]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ a b 就任後、1898年(明治31年)8月10日施行の第6回衆議院議員総選挙で当選。
^ この時、明治天皇は伊藤内閣が存続し、大隈と板垣が入閣するものと勘違いして裁可を行った[6]。またこの際明治天皇は、伊藤に「自由党のみ」を用いるわけにはいかないかと聞いており、大隈と進歩党系に不信感を持っていた[7]
^ 板垣は伊藤に対して、大隈が後継内閣を引き受けるのであれば自身は隠居することが本来の願いであること、伊藤の辞任は意外であり、自身は首相の器ではないと繰り返し述べた。(中元 2020, p. 195)
^ 首相は1名であるので大命降下は原則1名に対して行われるが、この時点で結党直後の憲政会は正規の党首を決めておらず、大隈・板垣のどちらが党首になるかわからなかったため、両名セットで大命降下を受ける前例のない形になった。
^ 大日本帝国憲法上、政党員は軍部大臣に就任できないと解釈されている(伊藤之雄 & 2019上, p. 489)
^ この反省により、所謂「キャリア官僚」制度が誕生、官僚の人事は政党内閣でも容易に介入できないようになった(倉山満 & 自民党の正体, p. 59)。

出典^ 大隈重信関係資料「条約改正交渉と2度の組閣」 古典籍総合データベース、早稲田大学
^ 『官報』号外「叙任及辞令」、明治31年6月30日
^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、明治31年10月27日
^ 『官報』号外「叙任及辞令」、明治31年7月8日
^ a b 『官報』第4523号「叙任及辞令」、明治31年7月28日
^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 488.


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