第1回十字軍
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11世紀後半の中近東情勢

西欧諸国とイスラム諸国の間には東ローマ帝国が存在していた。東ローマ帝国はキリスト教国ではあったが、世俗権力の下に正教という別の教派が置かれ、カトリック教会と北地中海沿岸の旧ローマ帝国支配域を二分していた。皇帝アレクシオス1世コムネノスの下で、帝国は西にカトリック教国群と隣接し、東にイスラム世界と接していた。さらに北からはスラブ人の圧迫も受けていた。アレクシオス1世はイスラム教徒に奪われた古来からの領土である小アジア(アナトリア半島)の奪還を悲願としていた。

当時のイスラム諸国は互いに争い、またセルジュークは内紛の真っ只中にあったことが、第1回十字軍の行動を成功に導いた。アナトリア半島とシリアは、中央アジアイラン高原を本拠地とするセルジューク朝によって治められていた。セルジューク朝もかつては大帝国であったが、この時代には地方政権が割拠する分裂の時期を迎えていた。かつてセルジューク朝を統合して最盛期を現出したスルタンアルプ・アルスラーン1071年に東ローマ帝国軍を破りアナトリアを支配下におさめたが、1092年に次代スルタンのマリク・シャーが亡くなると、大セルジューク朝は内紛続きで分裂状態になっており、セルジューク系の各地方君主たちは互いに相手の隙につけこんでは戦う情勢だった。アナトリア方面はセルジューク朝の本家である大セルジューク朝ではなく、分家のルーム・セルジューク朝の統治下にあり、シリアを統治するセルジューク朝分家のシリア・セルジューク朝は跡を継いだ兄弟の間で深刻な対立状態にあった。

名義上はセルジューク朝の版図の一地方でありながら、実質的にセルジューク家の一族によってばらばらに支配されていたのがジャズィーラとパレスチナであった。一方、パレスチナはエジプトを主な領土とするシーア派のファーティマ朝が統治していた。ファーティマ朝は台頭してきたセルジューク朝にシリアとパレスチナを奪われて以来争いを繰り返しており、ファーティマ朝と対セルジュークで連携を取っていたアレクシオス皇帝は、十字軍にエルサレム攻撃にあたってファーティマ朝と手を組むよう勧めていた。

ムスタアリー(Al-Musta'li)に率いられていたファーティマ朝はセルジューク朝によって1076年にエルサレムを奪い取られ、十字軍到来寸前の1098年にようやく取り戻したばかりであった。ファーティマ朝の宮廷ではエルサレム占領を目指すという十字軍の意図に気づかず、エルサレムに到着する寸前までセルジューク朝そのものを攻撃に来るものとばかり考えていた。
十字軍運動への歴史的経緯
クレルモン教会会議詳細は「クレルモン教会会議」を参照

1095年3月、アレクシオス1世はピアチェンツァ教会会議に特使を派遣、時の教皇ウルバヌス2世に対セルジューク朝戦への援助を求めた。ウルバヌス2世はこれを快く受け入れた。カトリック教会の側では常に正教会が自らへ帰属する形としての服従を望んでおり、教皇は今こそ正教会との不幸な決裂を乗り越え、ローマ教皇の下に併合される形での教会再合同の好機がおとずれたと考えた。ウルバヌス2世は1095年の春から夏にかけ、半年以上にわたりフランス中南部を遊説し、東方への軍団派遣の構想を練ってゆく。

1095年11月にフランスのクレルモンで行われた教会会議で、教皇は重大発表を行うと宣言した。発表の日、居合わせたフランスの貴族たちと聖職者に向かって教皇は、イスラム教徒の手から聖地エルサレムを奪回しようと訴えた。彼は、人口が増えすぎたフランス人にとって聖地こそがまさに「乳と蜜の流れる土地」であると訴え、この行動に参加するものには地上において天において報いが与えられること、もし軍事行動の中で命を落としても免償が与えられることを告げた。この呼びかけに居合わせた群集の熱気は高まり、「神のみむねのままに!」という叫びがこだました。

ウルバヌス2世の十字軍勧誘説教は、ヨーロッパの歴史に残る名演説の一つであるといわれるが、第1回十字軍の成功後に記録が書かれたため、実際にどんなことを教皇が言ったのか、現代では知ることが難しい。ただ一つ間違いないことは、教皇の訴えが群集の熱狂を引き起こし、教皇の意図を上回る規模の反響が起こったということである。教皇は1095年から1096年にかけて、フランス、イタリア、ドイツといった各地の司教に同じような内容の呼びかけを行わせた。

その際、この行動には女性、修道士、病気の者は参加することができないと付け加えていたが、熱狂する集団の耳には届かなかった。この呼びかけは農民や農奴も熱狂した。彼らはエルサレムへ赴くだけの蓄えも戦闘技術もなかったが、日常の抑圧から逃れたいという宗教的情熱に身を焦がし、先進的な東方文明での富貴を願っていたため、そんなことは問題ではなかった。教会の指導者や領主たちがどれだけ厳しく禁じても、熱狂的な庶民が聖地へ向かって集団移動することは止めることができなかった。
民衆十字軍詳細は「民衆十字軍」および「隠者ピエール」を参照

ウルバヌス2世の考えた十字軍計画では、軍団の出発は聖母被昇天の祝日である1096年8月15日を期していた。しかしそれより数ヶ月前に教皇の計画に入っていなかったグループ、すなわち貧しい農民や貧しい下級騎士が、勝手に集まってエルサレム目指して出発してしまっていた。彼らはアミアンのピエールなる自称修道士、隠者ピエールを指導者と仰いで聖地を目指した。大した人数は集まるまいという大方の予想を裏切り、このグループは10万人という規模に膨れ上がっていた。しかし、その多くは戦闘技術など全く知らない人々であり、子供も多く含まれていた。これを「民衆十字軍」という。十字軍とはいっても、彼らの多くは別に戦闘を望んでいたわけではなく、巡礼や略奪というくらいの気持ちで参加していたのが実情であった。

民衆十字軍は人数のみ多く、全く統制がとれていなかった。さらに(西欧出身の人々が多かったと推測されているが)参加者は独自の生活習慣に従っていたため、聖地にたどり着く前のヨーロッパの国を移動している時点でトラブルが頻発した。彼らはたどりついた町々で食料や水、各種の物資を得ようとした。略奪ではなくとも、低価格で必需品を差し出すと考えていた。しかし、突如現れた武装集団に、町の人々が温かな対応を見せる理由はなかった。これが原因となって民衆十字軍と滞在先の民衆はしばしば争いを起こした。

ドナウ川に沿って南を目指した民衆十字軍の一行だったが、大々的にハンガリー領内で略奪行動を行ったため、ハンガリー兵の攻撃を受けた。同じことがブルガリアや東ローマ帝国領内でも繰り返された。これによって参加者の1/4にものぼる人々が殺された。生き残った人々は8月にコンスタンティノープルにたどりついた。しかし、突如あらわれた多数の武装した集団に、コンスタンティノープル市民の間には緊張が高まった。


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