第十雄洋丸事件
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この実施計画は、翌26日午後に行われた処分部隊の研究会において、部隊に対し示された[2][3]

使用する魚雷としては、当初、最新鋭の直進魚雷で炸薬量も多い72式魚雷が検討されていたが、制式化直後だったこともあり、約1ヶ月の整備期間を要することが判明して、急遽、Mk.37が使われることになった[4]。この魚雷を調整できる水雷調整所が呉だけであったため、現場最寄りの横須賀所属の潜水艦を差し置いて、呉基地所属の「なるしお」に白羽の矢が立ったものであった[5]

Mk.37魚雷は誘導機能を備えたホーミング魚雷だが、漂流する「第十雄洋丸」にはその目標となるドップラーがないことから、ホーミング魚雷ではなく直進魚雷として使用することになり、防衛庁・自衛隊およびメーカーである三菱重工業が突貫作業でドップラー制限を外すための改修を検討・実施した[4]。この改修作業のために、「なるしお」の到着は航空機・水上艦よりも遅れている[2]
実動

水上部隊は11月27日昼に現場海面に到着[1]、巡視船「みやけ」「のじま」と合流した。「はるな」から発進したHSS-2ヘリコプターの調査により、「雄洋丸」右舷の外板の一部が熱で脱落していることが判明し、まずここを射撃することとなった[6]

13時45分から14時5分にかけて、単縦陣同航対勢で5インチ砲による第1回射撃を実施した。これにより、右舷3・4番ナフサタンクが破壊されて大火災が生じ、また右舷が軽くなったことで左へ約10度傾いた。続いて15時半から16時5分にかけて、今度は単縦陣反航対勢で第2回射撃を実施し、左舷1・2番ナフサタンクを破壊した[3]。これらの射撃によって積荷のプロパンやナフサが炎上し、火炎の高さは約100メートルに達した[1]。水上部隊は周囲を巡回しながら監視を続け、翌日に備えることとなった[3]

11月28日は、9時から10時20分にかけて、航空機による射爆撃が行われた[3]。まず4機のS2Fが2機ずつの編隊に分かれて127 mmロケット弾の射撃を行った。続いて3機のP-2Jの対潜爆弾による爆撃が行われた。P-2Jが潜水艦を爆撃する際には高度200フィート (61 m)での低高度爆撃を行っていたが、今回の攻撃では高度3,000フィート (910 m)からの水平爆撃を行うことになっており、データがなく照準器が使えなかったことから、航法用の偏流測定儀を使って照準することになり、太平洋戦争中の艦上攻撃機の搭乗員経験者を中心にして徹夜で射表が作成された[3]

11時より、「なるしお」による雷撃が開始された[3]。1本目は、発射後規定の時間が経過しても航走を開始しなかったため、水打ち(艦外放棄)とした。しかしこのとき、魚雷に付き添って呉水雷調整所から派遣されていたベテランの整備員(1等海曹)が、これ以降の魚雷でも発動遅れが生じることを予想して、艦長に対し、2発目以降では60秒待つように進言した。艦長がこの進言に従ったところ、予想通り、いずれもやや遅れて航走を開始し、2本目は左舷に、また3本目は船体中央付近に命中した。ただし4本目は、調定深度が深い魚雷を使用したために命中せず、船底を通過したまま行方不明となった[4]

その後も「雄洋丸」は健在だったことから、まず15時12分より「ゆきかぜ」単艦が同航対勢で右舷1番タンクに対し射撃を実施したのち、16時16分にかけて、単縦陣反航対勢で左舷への射撃を実施した[3]

18時47分、20日間炎上し続けた「第十雄洋丸」は犬吠埼灯台の東南東約520 kmの海域に沈没した。「第十雄洋丸」の船体が水没した後も、船体がきしむ音が「なるしお」のソナーで記録されている[5]。護衛艦各艦では、信号員がラッパで「悲しみの譜」を吹奏し、また汽笛で超長音を吹鳴して、見送った[3]
海難審判

この事件は、当時日本最大級のLPGタンカーの積荷が爆発炎上、多数の死者を出した他、東京湾航路の根幹とも言うべき中ノ瀬航路を事実上、閉鎖状態にするという重大な事態を招いたために運輸省(当時)横浜地方海難審判庁(当時)によって指定重大海難事件とされて海難審判の対象となり、受審人として第十雄洋丸関係者から第十雄洋丸船長、第十雄洋丸三等航海士、第十雄洋丸次席三等航海士及び当時水先艇を務めていたおりおん1号船長が指定され、指定海難関係人には第十雄洋丸船舶所有者及びパシフィック・アレス運航者が指定されて1974年12月26日に第一回審判が開かれた。

海難審判では、海難審判庁の調査によって事故に至るまでの次の経過が判明している[7]

「パシフィック・アレス」が木更津港からの出港前に水先人から使用していた海図の不備を指摘されて修正を受けたこと。

「第十雄洋丸」が水先艇との間隔を一定に保つべきところを時間の経過とともに距離が縮まっていったこと。

「第十雄洋丸」が衝突の約6分前に「おりおん1号」とともに右舷38度弱の方向、約1.5海里の距離に「パシフィック・アレス」を視認していたこと。

両船がともに衝突直前まで減速を含む回避行動を取らなかったこと。

その後、1975年(昭和50年)5月23日に「(判決内容)」との第一審の裁決が言い渡されたが、これを不服とする第十雄洋丸関係者から第二審の請求がされ、第二審は高等海難審判庁(当時)において同年8月26日から同年12月17日までの間で審理が行われた結果、1976年(昭和51年)5月20日に衝突場所が航路外の場所であったものの、「第十雄洋丸」は衝突時において船尾の50 mほどを中ノ瀬航路内に残していたことから、このような形で競合する場合においては海上交通安全法による航路優先の原則が優先される旨の判断を下し、「本件衝突は、パシフィック・アレスの不当運航に因って発生したが、第十雄洋丸船長の運航に関する職務上の過失もその一因をなすものである」を主文とし、事故の主たる原因が「パシフィック・アレス」の不適当な航路の横切りにあることを認めながらも、第十雄洋丸船長が海上衝突予防法第29条(当時)に規定するグッドシーマンシップに基づく「船員の常務」として行うべきである「パシフィック・アレス」との衝突を回避するための最大限の努力を怠った責任を追及する内容を理由として第十雄洋丸船長の船長免状の効力を1ヶ月間停止する第二審の裁決が言い渡されて確定した。

なお、この海難審判においては、最終的に第十雄洋丸船長を除く受審人は全員が「過失と認めない」または「本件事故と関係なし」とされた他、指定海難関係人は全員が「本件事故と関係なし」として処理されている。
結果と教訓

この事故においては、両船の衝突位置の関係とその後の火の廻り方から、「第十雄洋丸」では延焼による積荷の大爆発を悟った第十雄洋丸船長による適切な時期での総員退船命令により、海へ飛び込む、延焼していない救命艇を下ろす、海上保安庁巡視船や「おりおん1号」に移乗するなどの方法で脱出し、最後まで船に残っていた第十雄洋丸船長と同船甲板長も海上保安庁の巡視船からの退船勧告に従って11月9日14時5分頃に脱出、乗組員38名のうち、6名の負傷者を含む33名の第十雄洋丸乗組員が救助され、死者が5名であったのに対して、「パシフィック・アレス」は第十雄洋丸に食い込んだまま船全体が一瞬にしてナフサの炎で包まれて閉じ込められたため、脱出することも外から救助することもできず、乗組員29名のうち機関室床面と船底の中間に当たるビルジウェルにいて火災をやりすごすことのできた二等機関士1名を除く船長以下28名が死亡した。

1965年(昭和40年)の「機船ヘイムバード桟橋衝突事件」(ヘイムバード号衝突炎上事件)[8]で整備された「ひりゆう」型消防船3隻を消火活動に従事させても鎮火に至らず、第十雄洋丸の曳航を民間企業に頼らざるを得なかった反省から、ひりゆう型消防船「かいりゆう」「すいりゆう」が追加建造されたほか、現場指揮能力と船舶の曳航能力を持ったたかとり型巡視船が2隻建造され横須賀港高松港に配備、さらにひりゆう型消防船を補完するぬのびき型消防艇が10隻建造、全国各地に配備された。この事件を教訓にして羽田特殊救難基地の前身となる特殊救難隊が創設されることとなった。
映像化

奇跡体験!アンビリバボー (2018年11月15日放送) - 当時の報道映像も使用された。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 海難審判所のホームページによる船名は、第拾雄洋丸である。
^ 水先人が乗降するための梯子


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