第二次世界大戦
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攻撃対象のほとんどが攻撃しやすい商船であったことから、連合国が通商破壊を意図していたことは明確であった[注釈 29]。しかし、電気やガス、水道については、燃料や原料の石炭が日本国内で自給できたため滞ることはなかった。1945年春過ぎに入ると、連合国軍機による本土空襲が相次ぎ、発電所や工場、鉄道や国道が破壊され、電力の供給がたびたび滞るようになった。そのほか、空襲や機銃掃射を受けて鉄道の遅延や停電が常態化した。終戦後の1945年冬から1946年春に配給やその遅延による窮乏生活はピークに達し、ララ物資など諸外国の民間団体による助けも行われた。ただし、ララ物資などの食料は贅沢な日本人の口に合わず受け取りを拒否される場合も多く余剰物資となり、1948年にはそのほとんどが保護施設などの食料に回された[810]。もともと日本は食料の産出量は農業、漁業ともに多く、イギリスやドイツ、ポーランドなど国によっては食料統制が1950年代まで続いたヨーロッパ諸国に比べると回復は早く、1947年頃には生活必需品や食料の配給が次々に終了し、通常に戻った[810]勤労動員され働く女性工員(1941年)
国民動員
1873年の徴兵令により、男子は満17歳から40歳までの男子を兵籍に登録することを定め、日中戦争後以降は徴兵年齢に達した多数の男性が徴兵された。当然女子は除かれた。また、軍需生産、開発に従事した者は除かれた。日中戦争から英米開戦に至り、航空機や船舶など、軍需の生産数はかつてないほどの量に達したが、徴兵年齢に達した多数の男性が徴兵されたために多くの熟練工も動員された。そのため英米開戦後1943年頃には多くの女性や大学生を含む非熟練工が現場に動員された。対英米戦の開戦以降も大学専門学校などの高等教育も変わらず行われていたが、対英米戦の戦局が悪化しつつあった1943年11月には、兵士の数を確保するために大学生や理工系を除く高等専門学校の男子生徒などに対する徴兵猶予が廃止され、学徒出陣が実施された。1944年後半に入るとさらに多くの男性が徴兵されたため、中高校生までもが非熟練工として現場に動員された(学徒動員)。また、多くの医師軍医として徴兵されたために医師の数が不足した。このために戦時中の医師不足対策が実施された。明治神宮を訪問するヒトラーユーゲント(1938年)
教育
日中戦争当時から小学生は「少国民」と呼ばれ、小学校でも基礎的な軍事訓練を受けるほか、欧米諸国同様に戦争や軍隊への親近感を抱かせるような教育が行われた。また日中戦争最中の1938年にはヒトラーユーゲントが来日し、東京市民から大歓迎された。1941年には国民学校令に基づいて国民学校が設立された。終戦に至るまで国民学校による初等教育中等教育は変わらず行われた。本土への連合国軍機の空襲の本格化を予想し、1944年8月4日には学童疎開が開始された。対英米戦の開戦以降はドイツ語イタリア語などの同盟国語以外の多くの外国語は、民間の間で「敵性語」とされ、新聞や雑誌などのマスコミにおける使用が自粛された。しかし、東條内閣は「英語教育は必要である」とし、戦争中も高校以上での英語教育は続いた[808]
政治
翼賛政治体制協議会(1942年)1942年の第21回衆議院選挙は、1941年の衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって1年延長の措置が第2次近衛内閣によって採られていた。対英米戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。しかし、第21回衆議院選挙の際など国民の間では政府に対する批判も行われたほか、雑誌などでは政府批判も比較的自由に行われた[808]。1942年2月23日に元首相の阿部信行を会長に頂く翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者議員定数いっぱいの466人を選考・推薦していった。もっとも既成政党出身者全てを排除することは実際には不可能であり、既成政党出身の前職の推薦に翼賛会内部の革新派が反発する動きもあった。推薦を受けた候補者は選挙資金(臨時軍事費として計上)の支給を受け、さらに軍部や大日本翼賛壮年団をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合や、選挙運動で候補者や支持者に有形無形の妨害を受けた場合が知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。
言論
「ぜいたくは敵だ」と書かれたポスター(1940年)日中戦争の開戦後には、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等といった国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、朝日新聞報知新聞など当時の極右の新聞や、さらに「隣組」を通じて言論、情報管理を行うことで、国民には積極的に戦争に協力する態度が要求された。しかし日中戦争当時から対英米戦の開戦前までは、ある程度の政府や軍批判や、枢軸国のドイツやイタリアの批判、それに反してイギリスやアメリカを好意的に見た言論も、マスコミや国民の間で自由に行われた[811]。1941年末以降の東條内閣下で言論統制が徐々に厳しくなり、スパイと思われるような発言や戦争に反対する言論、また特に思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧した。この対象は政治家や官僚も例外ではなく、1945年2月には終戦工作を行ったとの理由で元駐英大使の吉田茂憲兵隊に逮捕されている。出陣学徒壮行会(1943年)ハーケンクロイツを掲げる日劇ダンシングチーム(1938年)
娯楽
日中戦争当時より日本の娯楽映画作品は変わらず製作されていたものの、1930年代後半のこの頃より『上海陸戦隊』(1939年)や『燃ゆる大空』(1940年)をはじめ、欧米諸国同様にプロパガンダ映画が多数制作、上映されるようになった。また、多くの歌手や芸人、俳優などが戦地や工場への慰問活動を行っている。日本の娯楽映画は英米開戦後も多数制作され、1945年に当局は国民の士気向上のために従来の方針を改め喜劇への検閲を廃止した。
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