また、当日には連合国軍最高司令官総司令部よりすべての航空機の飛行が禁止されたほか、漁船を含む船舶の一切の移動が禁じられた。なお、マッカーサー最高司令官は9月8日まで横浜のホテルニューグランドに宿泊し、そのあと東京のアメリカ大使館に入っている[791]。
連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し[792]、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。日本での戦犯逮捕を指揮したエリオット・ソープCIC部長は、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサー最高司令官に「戦犯を亡命させてはどうか」と提案したことがあったが、マッカーサー最高司令官は「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという[793]。さらに後年、「極東国際軍事裁判は失敗であった」と悔やんでいる[794]。最終的に逮捕したA級戦犯の容疑者は126名となった。
一方、中華民国やイギリス領香港、マレー、シンガポール、ビルマ、インド、またはアメリカ領フィリピンやオランダ領ジャワ、フランス領インドシナ、オーストラリアなどにいた日本軍人、軍属はそれぞれの現地で捕虜となり、その後現地でB級ならびにC級戦犯として裁判に掛けられる者が多かった。これらの軍人、軍属に対する連合国のB級ならびにC級軍事裁判は1946年まで行われ、その結果、収容所に入れられるか[795]または現地で死刑となった。
さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、まともな裁判もないままにシベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。また金目の物や車、タイプライターや家具までソ連軍に強奪され、ソ連に送られた[796]。その後帰国してきた軍人も、共産党の教育下で赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれている者も多かった[797]。
民間人や外交官、軍属などは1945年8月より帰国を開始する。自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナ、タイなどからは比較的順調に帰国したものの、中華民国や満洲国では内戦やソ連の占領下にあるなど混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いていかれる者も多かった。
犠牲者第二次世界大戦の死者数詳細は「第二次世界大戦の犠牲者」を参照
軍人と民間人の犠牲者数の総計は世界で5?8千万人に上るといわれている。 第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所憲章に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。日本に対しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が、ドイツに対してはニュルンベルク裁判が開廷された。東京裁判の法廷内ニュルンベルク裁判の被告席 日本では、戦争開始の罪、連合国のイギリス、フランス、オランダ、中華民国、アメリカとオーストラリアと、なぜかソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東條英機ら軍人や官僚、政治家など28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。なお、民間人は訴追されなかった。 ドイツでは、ヒトラーやゲッペルス、ヒムラーやボルマンなど主要な人物が裁判を前に自殺、もしくは逃亡したが、ヘルマン・ゲーリングらナチスの閣僚や党員だけでなく、軍人や官僚、民間人ら24人が捉えられ、訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。 しかし、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲、大阪大空襲、ドレスデン爆撃、ハンブルク空襲など、連合国側の民間人への大規模な無差別戦略爆撃は、枢軸国側より遥かに悪質であり、また大戦初期のソ連によるポーランド[注釈 27]、フィンランド、バルト三国への侵略行為、大戦末期のベルリンの戦い、ブダペスト包囲戦などのソ連兵のドイツなど枢軸国内への虐殺・暴行、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為、さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国への侵攻・暴行・略奪行為、降伏後の日本の北方領土への侵攻・占拠などについての責任追及は全く行われていない。 また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留[注釈 28]、ビルマでの降伏日本軍人の抑留等の事例について、国際法違反の人道犯罪
戦争裁判
サンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむを得ず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であったとする報告がある。