日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でイギリス軍兵士1名の死者と5人に重軽傷を負わせるなど一定の戦果を上げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し東南アフリカ沿岸まで追いやるなど、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、また友邦のドイツ軍もいなかったことから、日本海軍はこれ以上の目立った作戦行動は行われなかった、
日本軍のアメリカ領土占領ダッチハーバーへの攻撃を報じるアメリカの新聞(1942年6月)
日本海軍は、同年6月3日から行われたアメリカのアラスカ準州のアリューシャン列島西部要地の攻略または破壊を目的として行われたAL作戦で、アラスカのベーリング海における漁業や通商の拠点となる重要な港であるダッチハーバーのアメリカ軍基地への空母「龍驤」「隼鷹」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。
また6月6日には、アラスカ準州のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島にアメリカ軍の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する(日本軍によるアッツ島の占領)。これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことで、続いて7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。日本軍にとってキスカ島、アッツ島上陸は戦略的には重要ではなく、実際に占領後も少ない守備隊しか置かなかった。アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年の米英戦争以来初めてのことであった。
ミッドウェー海戦ミッドウェー海戦で回避行動中の空母蒼龍(1942年6月)
1942年6月、日本軍は太平洋中央のアメリカ軍の拠点ミッドウェー島に侵攻し、迎撃に出てくるアメリカ機動部隊を撃滅せんとするMI作戦を計画、これまで太平洋を席巻していた第一航空艦隊を主力とする機動部隊、空母4、戦艦4、重巡洋艦10、軽巡洋艦34に加え、後詰めとして戦艦大和など戦艦7、空母1、軽巡洋艦3、駆逐艦21といった連合艦隊の総力を結集して、輸送艦16隻に分乗した一木支隊3,000人と海軍陸戦隊2,800人と共にミッドウエー島に向けて出撃した[433]。しかし、アメリカ海軍情報局がパープル暗号を暗号解読して、作戦計画を事前に入手しており、万全の体制で日本軍を待ち構えていた。まずはミッドウエー島の飛行場許容量いっぱいとなる、PBYカタリナ飛行艇30機、B-17爆撃機17機を配置して索敵能力を強化、26機の戦闘機(ブルースター F2A)、34機の索敵爆撃機(TBD、SB2U)、6機のB-26に新兵器のTBFアベンジャーも6機配備されて攻撃力も強化していた[434]。
ニミッツは太平洋上可動艦艇をかき集めて、空母3、重巡洋艦7、軽巡洋艦1、駆逐艦14をレイモンド・スプルーアンス少将に託し、日本軍機動部隊を迎え撃った。空母のうち1隻は先の珊瑚海海戦で損傷したヨークタウンであり、日本軍はその損傷の程度からしばらくは戦線復帰困難と判断していたが、真珠湾のドックでわずか3日で修理を完了し合流しており[435]、艦船の数は日本軍が圧倒的に勝っていたとはいえ、艦載機数ではほぼ互角、陸上機を合わせた航空戦力ではアメリカ軍の方が上回ることとなった[436]。6月4日には日本海軍機動部隊は早くもミッドウエー島のPBYカタリナ飛行艇に発見され、6月5日未明に日本海軍の空母から出撃した艦載機がミッドウエー島飛行場を攻撃し大損害を与えたものの、その後のミッドウエー島飛行場からの反撃で、日本海軍機動部隊は損害こそなかったが、アメリカ海軍機動部隊とミッドウエー飛行場両方を相手にする必要に迫られた[437]。
日本海軍機動部隊の動向は、ミッドウエー島の航空隊によって捕捉され続けており、スプルーアンスは、日本空母がミッドウエー攻撃隊を収容している時間帯を狙って3隻の空母からほぼ全艦載機を出撃させた[438]。日本海軍も重巡洋艦利根の零式水上偵察機がようやくアメリカ海軍機動部隊を発見し「敵らしきもの10隻みゆ」と報告してきたが、とき既に遅く、アメリカ軍艦載機の編隊が日本海軍機動部隊上空に現れて、たちまち主力空母赤城、加賀、蒼龍の3隻が炎に包まれた[439]。わずかに生き残った飛龍は第二航空戦隊司令官山口多聞少将の指揮で反撃し、ヨークタウンを大破させたが(後、潜水艦「伊一六八」により撃沈)、飛竜もアメリカ軍艦載機の攻撃で沈没し山口も戦死した。