第二次世界大戦
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1月に日本は、母国がドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命および植民地政府とも開戦し、ボルネオ島カリマンタン[注釈 18]ジャワ島スマトラ島[注釈 19]などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。

南米においては、ブラジルが、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦することを決定した。ただし、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。また、ドイツやイタリアと友好関係にあったアルゼンチンは中立を保った。一方、佐世保鎮守府が管掌する旅順旅順要港部は、1月15日をもって廃止された。シンガポールにて降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将(1942年2月)

日本軍は9日にイギリス領マレー半島のセランゴールを占領、11日午前12時にクアラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した[401]。イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた[402]

ジョホール州に迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールに迫った。2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールへの攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[403]。8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡河を開始、第18師団長牟田口廉也中将が戦闘で負傷するほどの激戦となったが、渡河に成功しシンガポール市街に向かって進撃を開始した。進撃路の途中には要衝ブキッ・ティマ高地があった。ブキッ・ティマ高地はシンガポールの水源であると共に、シンガポール市街を守る防衛線の核で、その周辺の高地も含めてイギリス軍は強固な陣地を構築しており、その攻略は必須であった。日本軍は紀元節までのブキッ・ティマ高地攻略を目指して強攻を続け[404]、大きな損害を被りながらも[405]、最後は日本軍得意の夜襲で、ブキッ・ティマ高地に占領した[406]。要衝ブキッ・ティマ高地を失ったイギリス軍はシンガポール市街に立て籠り、2月13日にはシンガポール郊外のケッペル港で戦闘が開始された[407]。イギリス軍は15インチ(380o)要塞砲(英語版)などの要塞砲を日本軍に浴びせて激しく抵抗したが、司令官のアーサー・パーシバル中将は、チャーチルからの「シンガポールを絶対に死守せよ」との命令[408]に反して降伏を決意し、第25軍はイギリス軍の降伏を受け入れたため、シンガポールは日本軍の手に墜ちた[409]

マレー半島の戦いも含め大英帝国は死傷者20,000人に加えて、イギリス兵35,000人、オーストラリア兵15,000人、インド兵67,000人、現地義勇兵14,000人の合計131,000人以上が捕虜となるなど甚大な損害を被った[410]。パーシバルに死守を命じていたチャーチルはこの敗戦に衝撃を受けて『大英帝国史上最悪の災害と最大の降伏』と後々まで悔やむこととなった[411]。イギリスの隣国であるアイルランドでは長年にわたる支配への恨みから反英感情が強く、特に独立運動を弾圧してきたパーシヴァルが降伏したことで元アイルランド共和軍(IRA)幹部らが、ダブリン駐在の別府節弥日本国領事を囲んで祝賀会を開いたという[412]。日本の損害は、戦死1,713名、戦傷3,378名[413]に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで日本軍の占領下に置いた。
南方資源地帯の確保大日本帝国の最大勢力範囲図(1942年8月時点)

日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦オランダ海軍とアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日にマカッサル[414]、2月10日-11日にバンジャルマシンに上陸しこれを攻略した[415]。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。このような中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「ファン・イムホフ号事件」が発生している。ダーウィン港内で炎上するオーストラリア海軍艦船 (1942年2月)

2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍 (RAAF) のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。オーストラリアに日本軍は上陸しなかったものの、オーストラリア北部への日本軍の空襲や機銃掃射などの攻撃は翌1943年まで継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈したほか、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を上げている。


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