12月17日には、伊7潜水艦とその積載偵察機がオアフ島を偵察し、アメリカ海軍が昼夜を問わず真珠湾の基地を修繕していることを確認。もう一度オアフ島の真珠湾をたたくことを検討する(K作戦を参照)。12月23日には、井上成美海軍中将指揮の下で同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も、2隻の駆逐艦を失うなど苦戦したが日本軍が占領した。
日本軍のアメリカ本土攻撃アメリカ西海岸沿岸で通商破壊戦を行った日本海軍の伊15
このような状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26[398]。10隻との記録もある)を、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコなどの西海岸沿岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカやカナダに通商破壊戦を展開し、中でも商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れるほどの距離で砲撃、撃沈し、西海岸の住人を恐怖のどん底においた[399]。
さらには、太平洋のアメリカ西沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、カリフォルニア州のサンディエゴ、モントレー、ユーレカ、オレゴン州のアストリアなどの複数の都市の海軍基地などの軍事施設を一斉に攻撃するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある[399]。
1942年
シンガポール陥落マレー半島を進む日本軍(1942年1月)
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、1月8日にイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。また日本が進出したフランス領インドシナでは、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[400]。
1月に日本は、母国がドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命および植民地政府とも開戦し、ボルネオ島(カリマンタン)[注釈 18]、ジャワ島とスマトラ島[注釈 19]などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。
南米においては、ブラジルが、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦することを決定した。ただし、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。また、ドイツやイタリアと友好関係にあったアルゼンチンは中立を保った。一方、佐世保鎮守府が管掌する旅順の旅順要港部は、1月15日をもって廃止された。