第二次世界大戦
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さらにアメリカは、レンドリース法でイギリスやオーストラリア、中華民国に武器を与えていることに加え、米比戦争シベリア出兵、第二次世界大戦以後もアメリカはベトナム戦争イラク戦争などで宣戦布告なく戦争を行っている[注釈 15]

アメリカは真珠湾攻撃を理由に対日宣戦布告を行い、連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、すでに日本と日中戦争支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国中華民国南京国民政府[注釈 16]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやフィリピン、さらにアメリカ固有の領土のアッツ島を日本軍の手により失い、その上に本土西海岸も数度の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。さらにその後日本海軍は、真珠湾攻撃のアメリカ側の軍艦の損傷と修理の状況を、スパイであるベルバレー・ディッキンソンを通じて中立国のアルゼンチンにいる海軍情報部に送らせた。
マレー沖海戦「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗する駆逐艦「エクスプレス」(1941年12月10日)

12月8日夜半にイギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこともあり、イギリス海軍は哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。にもかかわらず、イギリス海軍東洋艦隊トーマス・フィリップス中将は、シンガポールの空軍司令部に戦闘機の艦隊支援に対する要望を書簡にして送付し、シンガポールにいる当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いて出撃した。9日中に日本軍に発見されない場合は、10日早朝に日本軍の船団を攻撃することを決心して北上を続けた[387]

しかし12月10日に日本海軍により発見され、マレー沖で日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機)の攻撃が開始され、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。この攻撃でプリンス・オブ・ウェールズは魚雷7本、爆弾2発。レパルスは魚雷13本、爆弾1発を食らった。日本陸軍側はわずか3機を失い、それに対してイギリス海軍側は2隻併せて将兵840名が死亡した[352]。これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。

なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した[388]。なお、日本軍航空隊は救助作業を行うイギリスの駆逐艦を攻撃せず、救助作業を妨害しなかった。さらに戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう[389]。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[390][391]

この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲に、後ろ盾になるはずの東洋艦隊を失ったイギリス軍は敗走を続けた[392]
日本軍の進撃フィリピンのオラニ飛行場を占領した日本軍

日本軍はアメリカの植民地であったフィリピンにも侵攻した。12月8日に真珠湾が攻撃されると、アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー大将にもその報告がされたが、部下からの台湾の日本軍飛行場への爆撃や、航空機の避難などの進言に対してマッカーサーが決断を下せない間に、日本軍がフィリピン最大の飛行場クラークフィールド飛行場を爆撃し、新兵器の大型爆撃機B-17を含む航空戦力が壊滅してしまった[393]。マッカーサーはドワイト・アイゼンハワー大佐らと、独立予定のフィリピン軍の育成をしており、アメリカ軍装備のフィリピン・スカウト(英語版)と、アメリカ陸軍フィリピン部(英語版)を統合したアメリカ極東陸軍15万人の兵力で、上陸する日本軍を迎え撃つこととなったが、上陸してきた本間雅晴中将率いる第14軍4万人に歯が立たず、貯蔵していた大量の食糧や物資を残したまま、首都マニラを放棄してバターン半島コレヒドール島に籠城した[394]。しかし、マッカーサーを追い詰めた日本軍は、籠城したアメリカ軍兵力を過小評価しており、主力の第48師団蘭印作戦に転出させたため、圧倒的に兵力に勝るアメリカ軍を攻めあぐねることとなった[395]

太平洋のアメリカ領のグアム島にも日本軍は侵攻。なおグアムにおける戦闘はわずか1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民合わせて650名であった。


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