第二次世界大戦
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また、国民的英雄エルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した[注釈 10]

またこの頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
ヨーロッパの解放モンテ・カッシーノ修道院跡(1944年5月)

イタリア戦線でも連合軍はドイツ軍を追い詰め、1月17日イタリアモンテ・カッシーノで、連合国軍のイタリア戦線における、ドイツ軍のグスタフ・ライン(英語版)の突破およびローマ解放のための戦いが開始された。1月22日にはアンツィオに連合軍が上陸して、アンツィオの戦いも開始された。2月15日カッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し修道院は破壊された。ブラジル軍も参戦し、5月19日に連合国軍は勝利し、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。

フランスではドイツ軍は、ノルマンディ上陸後の連合軍の進撃を辛うじて食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついにドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月頭にイギリス軍やカナダ軍、アメリカ軍を筆頭に連合軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。解放されたパリ(8月25日)

ドイツ軍も8月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将をパリ防衛司令官に任命しパリを防衛するも、8月16日には南フランスにも連合軍が上陸し(ドラグーン作戦)、ドイツ軍のパリ防衛も時間の問題であった。

ヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくして撤退するよう言明した。パリを防衛するドイツ軍は崩壊し、8月25日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。しかしドイツ軍はヒトラーの指令に反しパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。

フランスを占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行した。さらに、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、スイスなど国外へ亡命する者もいた。

8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。

また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦でハンガリー全土を占領、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失でついにドイツの石油供給は逼迫する。

9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。
ドイツ本土空襲激化自機の下で語らうアメリカ陸軍航空隊のエース・パイロットのウェンデル・O・プリューイット大尉

ドイツ本土上空では引き続き激戦が繰り広げられていたが、本土防空体制強化への軍備リソース投入の偏重はさらに高まっており、戦闘機の80%が本土防空に充てられていた[212]。そのため、東部戦線では13,000機のソ連軍戦闘機に、ドイツ空軍は500機で対抗しなければいけないといった惨状で、東部戦線の崩壊を早める原因にもなった[213]。ドイツ空軍は、さらに多大なリソースをつぎ込んで、戦闘機の増産を図り、機上レーダーなどの装備を充実させた。防空体制の強化に対して苦戦していた連合軍空軍であったが、実に単純な方法で戦況を有利にすることに成功した。その単純な方法とは、護衛戦闘機の数を増やし、さらに増槽を装備させて航続距離を延伸させ、爆撃機の護衛を強化することであった[214]


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