第二次世界大戦の背景
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しかしフランスの要求が通り、ドイツ系ボヘミア州はチェコスロバキアの領土となることが確定した。この一連のチェコスロバキア政府の行動にヒトラーは納得がいかなかった。そこで英仏との間でヒトラーは強引ともいえる要求と、戦争を避けようとする宥和政策との間で駆け引きが続けられた。1938年9月に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドゥアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協した。こうしてチェコスロバキア政府の意向は英仏独によって完全に無視され、チェコスロバキアは解体され、ドイツはズデーテン地方を獲得しチェコを保護国とした。この一連の行動で、ハンガリー及びポーランドも領土を獲得した。
ダンツィヒ帰属問題

ヒトラーはベルサイユ体制の不当項目解消の最終目的であったダンツィヒを含めた、ポーランド回廊を要求した。当時のダンツィヒは人口の約95%をドイツ人が占め、現地ドイツ人は民族自決の原則に従ってドイツへの帰属を求めていた。このダンツィヒをめぐる外交にはドイツ・イギリス・フランスのほかローマ法王や、ムッソリーニ、ベルギー国王などが参加しており最後にはアメリカのルーズベルトも参加していた。[3]ヒトラーの要求は各国で合理的な正当性のある要求だと認められていた[4]、ポーランド外相のヨゼフ・ベックらポーランド政府要人は一応要求に一定の理解を示していて、1939年4月の囲い込み政策以前はポーランド回廊に関する実質的合意に至っていたとリッペントロップ外相は1939年8月14日に列国議会同盟会議に参加していた、アメリカ代表のハミルトン・フィッシュ3世との会談で述べていた。しかし、この囲い込み政策によってポーランド軍部が強硬姿勢に転じ、今までの合意はうやむやにされた。このイギリスの行動にヒトラーは態度を一転し、今まで交渉してきた、イギリスとの約束(ドイツは陸軍を30万を条件とし、海軍力も英国の3分の1にするなどの約束)をうやむやにし、急激にイギリスを強く嫌悪し、敵視した。囲い込み政策に政策を一転させた理由は多々あるが、アメリカの対英仏軍事支援の条約が関係していると考えられている。[5]囲い込み政策が施行されるとポーランドは軍事的支援の確約が得られ、さらに勢いがついていった。ヒトラーは遂に耐え切れず、ソ連との不可侵条約である独ソ不可侵条約が結ばれた。この中の秘密規定にはソ連とポーランドの戦争においてソ連が失った地のソ連復帰が約束されていた。その後、一度、動員を宣言したものの、ムッソリーニを筆頭にした抗議によって一度は動員令を解除した。そしてダンツィヒ問題に関してもう一度話し合うように勧められ交渉が再開したが、英仏の支援が確約されていたポーランドはその約束を唯一の頼みの綱としてドイツとの直接交渉を行わなかった。1939年9月1日ヒトラーはポーランドに対し宣戦布告を行った。9月3日英仏両国もドイツへ宣戦を布告、ここに第二次世界大戦が勃発した。
国際情勢「戦間期」も参照
ヴェルサイユ体制パリ講和会議における各国首脳、左からロイド・ジョージ(イギリス)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)

第一次世界大戦後の世界情勢では、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱した十四か条の平和原則に基づいて1919年パリ講和会議が開かれた。提唱国の日本とアメリカ、イギリス、イタリアと開催地のフランスの首脳を含む第一次世界大戦の戦勝国の代表団が参加し、参加国間でヴェルサイユ条約が締結され、翌年国際連盟を設立することを謳った「ヴェルサイユ体制」が成立した。翌年、国際連盟が設立されたが、肝心のアメリカが議会の反対とヨーロッパの情勢の影響を受けることを嫌ったため参加せず、ソビエト連邦とドイツが敗戦国であるために除外されていた。

パリ講和会議における「民族自決主義」は不貫徹なものであったとはいえ、国際法の一部となった。ヨーロッパ地域では、ハンガリーチェコスロヴァキアユーゴスラビア、ポーランド、フィンランドエストニアラトビアリトアニアはこの時に独立を認められた。アジア・アフリカ地域では、イギリスは1921年に長年支配下にあったイランを、1922年エジプトを独立させている。このことからヴェルサイユ体制は単なる列強の論理の具現ではないと言える。

ただ、旧ドイツ植民地及びオスマン帝国の領土を委任統治の名の下、事実上、保護国化したことに加え、国境線は人為的なものであったことから、第一次大戦以降の民族問題は、より複雑で錯綜したものとなった。実際、イギリスとフランスはサイクス・ピコ協定に基づき、オスマン帝国の領土を二分した。シリアとレバノンはフランスの委任統治領となり、イラク、トランスヨルダン、パレスティナはイギリスの委任統治領となった。また、南西アフリカ(現在のナミビア)は、南アフリカ連邦の委任統治領へ、南洋諸島は、日本とオーストラリアの委任統治領となった。

また、戦後英仏から戦争責任を問われ報復の対象となったドイツは敗戦国の中でも特に巨額の賠償金を課せられたうえ軍備を制限されすべての植民地が没収された。このためドイツでは社会不安によるインフレーションを招いた。
新たな植民地獲得

第一次世界大戦のヨーロッパの戦勝国は、国土が戦火に見舞われなかったアメリカに対し多額の債務を抱えることになった。その後債権国のアメリカは未曾有の好景気に沸いたものの、1929年10月にニューヨークウォール街における株価大暴落から始まった世界恐慌は、ヨーロッパや日本にもまたたくまに波及し、社会主義国であるソビエト連邦を除く主要資本主義国の経済に大きな打撃を与えた。

この世界恐慌を打開するため、植民地を持つ大国は自国と植民地による排他的な経済圏いわゆるブロック経済を作り、植民地を持たない(もしくはわずかしか持たない)国々は新たな植民地を求めるべく近隣諸国に進出していった。例として、前者はイギリスのスターリング・ブロック、フランスのフラン・ブロックである。後者は1930年代の日本による中国大陸での権益確保と事実上の傀儡政権である満州国の設立[6]、イタリア王国によるエチオピアの侵略やドイツによるオーストリアの無血占領(併合)が挙げられる。また、後者においては、経済の停滞による政情不安によりファシズム的思想の浸透やそれにともなう軍部の台頭がみられた他、この時期における人種差別的志向の台頭が顕著なものとなった。
石油資源を巡る思惑アメリカ、カリフォルニア州の油田

第一次世界大戦で本格化した飛行機の戦争利用、塹壕戦を打ち破る戦車等新兵器の開発は内燃機関の発達と共に急速に進展した。又、従来石炭を用いていた部分も多かった軍艦も重油を使用するようになった。兵器の進化によって軍隊は石油なしには成立しない状況になったといえる。

これまでの国力を測る人口や工業力にとどまらず、石油資源の確保は重大な問題となり、イギリスやアメリカ、オランダ等の国内外に石油資源を持つ国家がそれを外交手段として用い始めたが、ドイツ、イタリア、日本などいわゆる持たざる国家にとっては石油の備蓄と産出地の獲得が死活問題となった。そのためこれらの国々は海外に資源の確保と維持を求めた。特に日本の場合に開戦時期を決める大きな要因となった。
海軍軍縮の破棄

イギリスとドイツによる建艦競争は第一次世界大戦の一因ともなったが、第一次世界大戦後も各国は大規模な建造計画を推進した。しかしながら建艦競争は各国にとって経済的に大きな負担であり、海軍の軍縮は列強にとって避けることのできない問題であった。アメリカ・イギリス・日本を中心とする主力艦戦艦空母)に関するワシントン会議に始まり、補助艦艇に関するロンドン会議を経、各国は「海軍休日」ともいわれる日々を送った。

しかし、特にロンドン軍縮条約の結果に大きな不満を持った日本海軍では統帥権干犯問題が発生し、最終的には第2次ロンドン会議には参加することなく条約期間の終了に伴う廃棄通告で海軍休日は終わりを告げた。無条約時代となった1937年より再び建艦競争が始まった。アメリカは「第2次ヴィンソン案」により海軍力25パーセント増強、「第3次ヴィンソン案」により同11パーセント、さらに「スターク案(両洋艦隊法)」により同70パーセント増強という大規模な建艦計画を矢継ぎ早に打ち出した。

日米海軍力比は急速に悪化して昭和16年度の対米80パーセント超から昭和19年度中に同25パーセントの劣勢に陥ると予測された[7]。軍縮条約破棄によりかえって日米の軍事バランスは悪化し、アメリカの建艦計画に追随しきれない日本海軍は深刻な危機感を抱いた。日本海軍内では、戦力バランスが完全に不利になる前に対米開戦すべきという議論が持ち上がり、太平洋戦争の開戦時期を決定する上で大きな要因の一つとなった。


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