第二次世界大戦の影響
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しかし占領政策を巡って米英仏の西側連合国とソ連の対立が激化し、1949年には西側連合国の占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、ドイツは東西に分断されることとなった。この分断状態は1990年まで続くこととなり(ドイツ再統一)、ドイツの戦争状態が正式に終了したのは同年にドイツ最終規定条約が締結された時であった。
領土の喪失


第一次世界大戦後も領有していた東プロイセンシュレジエン、ドイツが回復した旧ドイツ帝国の領土であるダンツィヒポーランド回廊など、オーデル・ナイセ線以東の広大な旧ドイツ東部領土を喪失した。また大戦直前に獲得したクライペダ(メーメル)もソ連構成国リトアニア・ソビエト社会主義共和国に返還された。

ミュンヘン協定は無効となり、ドイツ人居住地域のズデーテン地方はチェコスロバキアに返還された。

大戦中から戦後にかけて東・中欧の喪失地域からドイツ人は追放され、大量のドイツ避難民がドイツ国内に移動する中で多くの死者が出た(ドイツ人追放)。

この他、大戦中にドイツが併合した地域は、フランス(アルザスロレーヌ)・デンマーク(北シュレスーウィヒ)・ベルギールクセンブルクの諸国にそれぞれ返還された。

西部のザールラントは自由州として分離され、フランスの管理下に置かれたが、その後、1957年に住民投票で西ドイツに復帰した。

ナチス政権が併合したオーストリアはドイツの被占領地域から分離され、1955年オーストリア国家条約ドイツとの合併は永久に禁止された。

戦犯裁判と非ナチ化
ニュルンベルク裁判世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーは敗戦直前に自殺。残虐行為を実行した親衛隊の長官ハインリヒ・ヒムラー、ナチス政権下の宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも同じく自殺し、残されたヘルマン・ゲーリングなどナチス首脳部の一部は、連合軍による国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)によって裁かれ、ゲーリング、リッベントロップ外相、ヴィルヘルム・カイテル元帥ら12名に絞首刑の判決が下された。また各占領地でも独自に裁判が行われ、特にニュルンベルク継続裁判等が著名である。占領地ではナチスの影響を排除する非ナチ化の政策が推し進められ、政軍の関係者以外でもマルティン・ハイデッガーレニ・リーフェンシュタールといったナチ協力者も非ナチ化裁判の対象となり、活動を禁止された者も数多くいた。
高官の国外逃亡と責任逃避
終戦直前にアドルフ・アイヒマンなどの多くのドイツ政府高官が、自らの身を守るためにドイツ国内外のナチス支持者[注釈 2]バチカンの助けを受けスペインやアルゼンチンチリなどの友好国に逃亡し、そのまま姿を消した。その一部はその後イスラエル諜報特務局や、「ナチ・ハンター」として知られるサイモン・ヴィーゼンタールなどの手で居場所を突き止められ、逮捕された後にイスラエル政府などによって裁判にかけられたものの、残る多くは現在に至るまで逃げおおせ、姿を消したままである。
賠償
第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」も参照賠償金は課せられなかったが、変わって現物と捕虜の労務による賠償が課せられた。特にソ連は戦争により被った膨大な被害に対する賠償として、自国占領地域で工業施設・インフラなどの解体・移送を行ない、捕虜の強制労働も極めて大規模に行った。このことが東ドイツの発展を阻害し東西ドイツの経済格差を生み出す要因となった。また、ダイムラー・ベンツクルップメッサーシュミットなど、ドイツの戦争遂行に加担し、強制労働に駆り出されたユダヤ人を利用した企業は、膨大な賠償金の支払いを課せられることになった。
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