第二次ポエニ戦争(だいにじポエニせんそう、羅: Secundum Bellum Punicum)は、共和政ローマとカルタゴとの間で紀元前219年から紀元前201年にかけて戦われた戦争。ローマ、カルタゴ間の戦争はカルタゴの住民であるフェニキア人のローマ側の呼称からポエニ戦争と総称されるが、この戦争は全3回のポエニ戦争の2回目にあたる。
またこの戦争において、カルタゴ側の将軍ハンニバル・バルカはイタリア半島の大部分を侵略し、多大な損害と恐怖をローマ側に残したため、この戦争はハンニバル戦争とも称される。 第一次ポエニ戦争の結果、カルタゴはシチリア島をローマに割譲し、地中海における海上覇権を大きく減退させた。カルタゴはこの損失を補うため、ヒスパニア(イベリア半島)の征服に取り掛かった。ハミルカル・バルカによってヒスパニアの征服と植民地化が開始され、彼の死後は娘婿のハスドルバルが事業を継続した。紀元前226年、ハスドルバルはローマとの間にエブロ川以北には進出しない旨の誓約を交わした。 紀元前221年、ハスドルバルが暗殺されると、ハミルカル・バルカの息子ハンニバルが後継者となった。ローマの伝記作者に拠れば、ハンニバルは幼い頃からローマに対する憎悪を教え込まれ、攻撃の機会を狙っていたという。紀元前219年、ハンニバルはサグントゥムを攻撃した。サグントゥムはエブロ川以南の都市であったが、ローマとの同盟を結んでいたため、ローマは攻撃停止を求める使節団をカルタゴに派遣した。しかし、両者が交渉をしている間にサグントゥム陥落の一報が到着、クィントゥス・ファビウス・マクシムスは使節団を代表して宣戦を布告した。 ローマを屈服させるにはイタリア本土を直接攻撃するしかない。しかし、制海権がローマに握られている以上、海上からの侵攻は困難である。さらにローマはカルタゴの侵入が予想されるイタリア西部、南部に兵力を配置していた。ここでハンニバルはアルプス山脈を越え、ローマの防備の薄い北方から侵攻するという前代未聞の発想に至る(ハンニバルのアルプス越え)。 紀元前218年5月、弟のハスドルバルにヒスパニアの統治を任せたハンニバルは、カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)を進発し、海岸線沿いに南フランスを進んだ。ローヌ川での戦いを経て9月、ハンニバルは約40,000名の兵士と30頭の戦象を率いてアルプス越えに挑んだ。なお、この際にカルタゴ軍が辿ったルートの詳細は不明であり、現在でも諸説分かれている。9月のアルプスはすでに冬季といってよく、ケルト人の部族との戦いもあり、大軍での越山は困難を極めた。イタリアに到着した際のカルタゴ軍の兵力は26,000名(歩兵20,000名、騎兵6,000名)、戦象はわずか3頭となっていた。 カルタゴ軍がイタリア北部に現れたという知らせはローマに大きな衝撃を与えた。元老院は執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオに2個軍団を与え、急遽迎撃に派遣した。11月、ティキヌス川付近で両軍の指揮官が直接指揮する騎兵同士が会敵し、そのまま戦闘になった。精強なヌミディア騎兵を中心とするカルタゴ軍がローマ騎兵を一蹴し、指揮官スキピオも負傷した。(ティキヌスの戦い) スキピオはピアチェンツァまで軍を後退させ、もう1人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスと彼の率いる軍団の合流を待った。カルタゴ軍は南進し、トレビア川を挟んでローマ軍と対峙した。12月18日、ハンニバルは騎兵によってローマ軍を対岸に誘引し、さらに林の中に埋伏させた弟マゴの指揮する騎兵にローマ軍の後方を奇襲させ、大損害を与えた。(トレビアの戦い) この勝利はハンニバルの名声を大きく高めた。ローマに敵対的だったガリアの部族はハンニバルを支持し、彼らの合流によってカルタゴ軍は一挙に50,000まで膨れ上がった。翌紀元前217年、元老院はガイウス・フラミニウス、グナエウス・セルウィリウス 3度の敗北を喫したローマはクィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官に選出し、彼に一切の権限を委ねた。ファビウスはハンニバルとの正面対決を避け、カルタゴ軍の消耗を待つ持久戦をとった。しかし、ハンニバルによってイタリア全土が略奪にさらされると、ファビウスの迂遠な戦略は批判を招き、「クンクタトル(ラテン語でぐず、のろまの意)」というあだ名がつけられた。ファビウスの任期が切れると、元老院は決戦を望む声を反映し、ルキウス・アエミリウス・パウルスとガイウス・テレンティウス・ウァロを執政官に選出した。両名は80,000名の軍団を率いてハンニバルの迎撃に向かった。 紀元前216年8月2日、アプリア地方のカンナエ近郊で両軍は対峙、当日の指揮官であるウァロが決断し、ローマ軍約80,000(うち10,000名が陣地に残留)はカルタゴ軍約50,000に決戦を挑んだ。戦闘序盤でカルタゴ軍左翼の騎兵はローマ軍右翼の騎兵を撃退。続いてローマ軍後方を迂回して反対側の翼へ回り込み、右翼の騎兵とローマ騎兵を挟撃した。ローマ軍中央はカルタゴ軍中央に猛攻撃を加えていたが、戦闘前にハンニバルが弓なりに歩兵戦列を配置していたため、徐々に押し込まれながらも持ちこたえていた。カルタゴ軍歩兵戦列の両翼に配された古参のアフリカ人傭兵は互角の戦いを繰り広げており、ローマ軍中央はV字になりつつあった。そこへローマ騎兵を撃退したカルタゴ騎兵が、歩兵戦列の後方に回り込み、完全な包囲態勢が完成した。恐慌状態に陥ったローマ軍は密集し、中央で圧死が発生、さらに外周から徐々に殺戮され、突破口を開くこともできずに殲滅された。
背景
イタリア侵攻
アルプス越え
ハンニバル進撃
カンナエ
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