イタリアを牽制できるイギリスとフランスは自国のエチオピア領内での国益(アディスアベバ・仏領ソマリア間のフランス資本の鉄道、ナイル川源流のイギリスによる支配権)を保証するなら基本的に介入する気はなかった[6]。そもそも非文明的で集権化も行われてないエチオピアへの侵略は、少し前の国際社会であれば倫理的とすら受け取られうる行動だった[5]。実際、奴隷制や封建制度が残る国を「文明化する」という事をムッソリーニは大義名分の一つに掲げたが[2]、これはイギリスやフランスが植民地支配で多用した理屈である[5]。国際連盟にエチオピアが加盟申請を出した際にもイギリス政府は人道的側面から反対し、民間に至っては反奴隷制運動家がエチオピアへの十字軍を主張している[6]。こうした観点は白人社会だけでなく黒人社会でも存在していた[7]。 ムッソリーニ政権下では当初エチオピアへの国民感情を穏当な形で決着させる方針が計画されていた。1928年8月、イタリアとエチオピア間で友好条約が結ばれて国交が回復した(イタリア=エチオピア友好条約 (1928年)
外交交渉
1932年4月、ムッソリーニはファシスト大評議会においてエチオピアに対する積極策を選択[11]、戦争を前提に英仏との関係改善に乗り出した[12]。アフリカ大陸に広大な植民地を抱え地中海の制海権を握っているイギリスとフランスの介入を予想したからであるが[13]、英仏の国益を侵害する意図がない以上は容易であると見ていた[14][15]。エチオピアが期待を寄せた英仏主導の国際連盟は「文明社会の戦争」を止める為の組織であって、文明社会による「蛮族への侵略」を阻止する組織ではなかった[6]。英仏との意見調整の最中、イタリア領植民地とエチオピアの国境地区であるワルワル(ウァルウァル)で小競り合いが起きた(ワルワル事件)。
イタリア領ソマリランドとエチオピアの国境を策定した条約では、ベナディール海岸から「21リーグ」内陸を平行した線とされていた。イタリア側はより大きくエチオピア領を侵食しようという意図から標準的なリーグではなく、海事におけるリーグと解釈した。1930年にはエチオピアのオガデン地方のオアシスであったワルワルに要塞を築き、1932年にかけてイタリア領ソマリランドからの進出はますます顕著になり、明らかにエチオピア領内である場所にまで道路が建設され始めた。直接的な軍事衝突の経緯ははっきりとしないが、こうした出来事を背景にワルワル近辺にある幾つかの井戸を巡って小競り合いが起きたと考えられている。戦闘でイタリア植民地軍とソマリ系のアスカリ(傭兵)に30数名の損害が出たが、エチオピア軍はその3倍以上の約100名が戦死した[15]。これはイタリアにとって好機であり、元より侵攻賛成派の多かった国内意見は完全に反エチオピア一色になった[15]。 一方、ハイレ・セラシエは国際連盟に介入を要請したが、アフリカの領土問題に関心のない英仏を苛立たせただけに終わった[15]。この頃には既にムッソリーニは遠征を胸中で決意しており、1933年12月20日にピエトロ・バドリオ元帥に対して「英仏に対しては両国の理解は承認されると宣言するだけで十分である」と述べて遠征準備を命令した[14]。1934年2月8日、ムッソリーニはヨーロッパが平穏であるという前提をつけながらも、エチオピアに対する軍事侵攻を1935年に開始することを決定した[12]。 ムッソリーニは念の為にフランスへの交渉や工作を続け、後にヴィシー政権首相となるピエール・ラヴァル外務大臣と接触している。ラヴァルの前任者であるルイ・バルドー
英仏の動き
折同年4月ドイツの拡張に対抗するためイギリス・フランスはイタリアとストレーザ戦線を結成して対独同盟形成に動き、ムッソリーニはこのイギリスとの連携をエチオピアへの不干渉と受け止めた[18]。