第三次奴隷戦争
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またエクィテスは元老院議員階級に次ぐ資力を持ち、法規定に縛られずに商業活動を活発に行いつつも投資先としてはやはり伝統的かつ安全な郊外の農地を選ぶ傾向があった。彼らは安価な労働力としてローマが征服したガリアゲルマニアトラキアなどの地から大量の奴隷を輸入し[注釈 1]ラティフンディウムと呼ばれる大土地所有制を急速に発展させた。首輪をかけられローマ兵に連行される戦争捕虜。彼らは奴隷市場で売られる運命にあった。

古代ローマの歴史を通じて、安価な労働力として奴隷の存在は経済の重要な要素であり続けた。奴隷は外国商人との売買そして征服した地域の住民の奴隷化といった様々な手段を通じてローマの労働力に組み込まれていた[4]。これらの奴隷の一部は召使や職人そして個人的な従者として用いられたが、奴隷の大部分は鉱山そしてシチリアや南イタリアの大農場で使役された[5]

共和政ローマ時代の奴隷は過酷かつ抑圧的に扱われた。ローマの法律では奴隷は人間ではなく財産と見なされていた。所有者は自らの奴隷を法的制約を受けることなく虐待し、傷つけそして殺すことができた。奴隷には様々な階層や形態があったが、最も低くそして数の多い階層である農場や鉱山の奴隷は過酷な肉体労働を生涯にわたって強いられた[6]

抑圧的に扱われる奴隷たちが特定の場所で集中して使役されていたことにより反乱が引き起こされた。 紀元前135年に第一次奴隷戦争が、紀元前104年には第二次奴隷戦争がシチリアで勃発した。挙兵した少数の奴隷のもとにローマの奴隷としての過酷な生活から逃れようとする者たちが集まり、数万人規模にまで膨れ上がっている。元老院がこれを深刻な騒乱であると見なし、鎮圧に数年を要したにもかかわらず、依然として彼らは奴隷の反乱を共和国に対する深刻な脅威であるとは考えていなかった。イタリア本土では奴隷の反乱は起こっておらず、奴隷がローマ市自体に対する潜在的な脅威であるとも思われていなかった[注釈 2]。この認識は第三次奴隷戦争の勃発によって一変することになる。
戦争の勃発 (紀元前73年)
剣闘士養成所からの脱走『剣闘士のモザイク(英語版)』
ボルゲーゼ美術館蔵詳細は「剣闘士」および「スパルタクス」を参照

紀元前1世紀の共和政ローマでは剣闘士試合は最も人気のある娯楽のひとつであった。試合に出場する剣闘士を供給するためにイタリア各地に剣闘士養成所がつくられた[7]。これらの養成所では戦争捕虜や奴隷市場で売買された者そして志願した自由民が剣闘士として闘技場で戦うための技術を教え込まれていた[8]。強い剣闘士は富と名声を得られ、興行師(ラニスタ)も大金を稼げたが、一方で当時のローマ社会では剣闘士は奴隷の中でも最下等の者とされ、興行師は売春宿の主人と同じ賤業と見なされていた[9]。剣闘士は試合に敗れても助命されるケースが多く必ずしも殺されるわけではなかったが[10][注釈 3]、幾度もの試合を生き延びて自由を得られる者は少数であり、過酷な境遇であることに変わりはなかった[11]カプア円形闘技場遺跡。

反乱の指導者となったスパルタクス(Spartacus)はトラキア人の剣闘士奴隷で、カンパニア地方のカプアにあるレントゥルス・バティアトゥス(英語版)所有の剣闘士養成所に属していた[12]。スパルタクスの出自についてプルタルコスはトラキアのマイドイ族出身とし[12]、アッピアノスは、元はローマ軍団の補助兵であったが、捕虜となって売られ剣闘士になったトラキア人であると伝えている[13]。フロルスはより詳細に「トラキアのメディ族出身、ミトリダテス戦争にてポントス王国側の傭兵として参戦。メディ族がローマと講和して後はローマの補助兵となったものの、反ローマ闘争に身を投じた。やがてローマ軍の捕虜となり、奴隷として売られてカプアの剣闘士養成所に入った」と述べている[3]。近代の歴史家モムゼンボスポラス王国のトラキア系王家の子孫とする説を唱えている[3][14]。スパルタクスの出身については史料の述べるトラキア(Thraex)とは民族ではなく彼が訓練された剣闘士のスタイル(トラキア剣闘士というタイプがある)のことではないかとする異論もある[15]

紀元前1世紀頃の南イタリアのカンパニア地方は剣闘士興行が盛んな土地であり、最古の剣闘士養成所はカプアにあったと考えられる[16]。このカプアのバティアトゥス養成所にはガリア人とトラキア人の剣闘士が多く所属していたが、興行師は無理に彼らをひとつ所に押し込めていた[12]。紀元前73年、剣闘士奴隷200人が脱走を計画した。密告によって計画が漏れると、およそ70人の奴隷が厨房の調理道具(包丁や焼き串[17])を武器に養成所を脱走し、さらに通りかかった数台の馬車から剣闘士用の武器と鎧も手に入れた[注釈 4]。逃亡して自由になった剣闘士たちはスパルタクスと二人のガリア人、クリクススとオエノマウス(英語版)を指導者に選んだ[18][注釈 5]

逃亡した奴隷たちはカプアから派遣された討伐隊を撃退し、不名誉と考える剣闘士の武器を捨てて手に入れた軍隊の武器を装備した[19]。養成所脱走直後の動向については史料によって異同があるが、逃亡した剣闘士の集団がカプア周辺を略奪し、そこの奴隷たちを仲間に加え、ウェスウィウス山に立て籠もったという点ではおおよそ一致している[注釈 6]
法務官軍の敗北


  逃亡奴隷の進路  法務官軍の進路反乱初期のローマ軍と奴隷軍の行動。カプアでの蜂起から、紀元前73年から72年にかけての冬まで。 ローマ  カプア  ノーラ  ノチェーラ  メタポントゥム  トゥリ  ウェスウィウス山  ノーラ  ヌケリア  ウェスウィウス山 

蜂起と襲撃が起こったカンパニアはローマの資産家や有力者の休養地であり、ここには多数の別邸が所在しており、反乱はすぐにローマ政府の注目を受けることとなった。当初、この反乱は武装蜂起ではなく、大規模な治安の悪化と見なされていた。剣闘士たちが立て籠もったウェスウィウス山

しかしながら、この年の後半にはローマは反乱を鎮圧すべく法務官の率いる討伐軍を派遣した[注釈 7]。法務官ガイウス・クラウディウス・グラベルは3,000人の兵士を集めたが、これは軍団兵ではなく「大急ぎかつ適当に徴集された」民兵であり、ローマ人たちはこれは戦争ではなく盗賊の襲撃の類と見なしていた[13]。グラベルの兵はウェスウィウス山の奴隷軍を包囲し、山へと通じる唯一の道を閉鎖した。奴隷軍を閉じ込められると考えたグラベルは、飢えに苦しんだ奴隷たちが降伏するのを待った。

奴隷たちは軍事訓練を受けてはいなかったが、スパルタクスの兵たちは手に入る資材を活用する創意工夫を示し、訓練されたローマ軍に対して知恵を絞った奇策を用いて対した[20]。グラベルの包囲作戦に対してスパルタクスの部下たちはウェスウィウス山の斜面に生育する蔦や木々を用いて縄や梯子をつくり、これらの道具を用いてグラベル軍の背後の崖を降りた。彼らはウェスウィウスのふもとを回って、グラベル軍の背後を突き、これを殲滅した[21][注釈 8]

法務官プブリウス・ウァリニウス(英語版)率いる第二の討伐軍がスパルタクスに対して差し向けられた。何らかの理由により、ウァリニウスは軍を部下のフーリウスとコッシニウスの部隊に分けていた。プルタルコスはフーリウスの兵を3,000としているが、それ以外の部隊の兵力、討伐軍が正規の軍団兵なのか民兵なのは明らかではない。今度の討伐軍も奴隷軍によって撃破され、コッシニウスは戦死し、ウァリニウスは捕らわれかけており、ローマ軍の装備は奴隷軍に奪われた[22]

これらの勝利により、この地方の牧人奴隷(牛飼いや羊飼い)をはじめとするより多くの奴隷たちが参集し、奴隷軍は約70,000人まで膨れ上がった[23][注釈 9]


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