第三政党制_(アメリカ合衆国)
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リンカーン大統領が戦争に勝利しただけでなく、反奴隷制度、自由土地、民主主義および民族主義の力を引き出し、合成させることで戦争を遂行したのは、リンカーンの類い希な精神を表すものである[8]アメリカ連合国は政党の全ての活動を放棄し、それによって政権を支持していた全国的組織の利点を失った。北部では共和党が全党一致で戦争遂行を支持し、士官を見つけ、兵士を徴募し、入隊時のボーナス、妻や未亡人への援助、軍需物資の調達、債権の購入、勝利には重要な熱狂を支えた。民主党はまず連邦のために戦争を支持し、1861年には多くの民主党政治家が軍隊の大佐や将軍に就任した。1862年9月にリンカーンが予告した奴隷解放は、奴隷権力の経済基盤を崩すことが主たる目的だった。奴隷解放宣言は当初、北部の多くの民主党員や中道派共和党員までも疎遠にした。彼等は劣っている人種と考えるもののために戦争を支援することを躊躇した。1862年の中間選挙で、民主党が躍進したが、共和党は統一党の支持で支配を続けた。戦場での成功(特にアトランタの陥落)が1864年の選挙では共和党の追い風になった。民主党は奴隷解放についての否定的な反応を勝機にしようとしたが、1864年には南部の意気が落ちていたために、この問題の影響は衰えていた。さらに共和党はカパーヘッドを裏切り者と告発することで、選挙を有利に導いた。北軍は次第に共和党支持を強めた。これは参戦した民主党員の大多数が帰還したときは共和党員になっていたからであり、その中でもジョン・ローガンベン・バトラーが有名だった[9]
終戦後

南北戦争とレコンストラクションは両党を二極化させたが、1877年の妥協で政治的戦争は終わった。戦争の問題は四半世紀も続いた。共和党は(戦死した北軍兵士の)血染めのシャツを振り、民主党は南部における黒人の優位と北部の金権政治を警告した。1854年に党を設立した近代化共和党員は、解放奴隷の固定票に支えられたユリシーズ・グラントと退役軍人のあからさまな汚職を横目で見ていた。これに不満を抱いた党員が1872年にリベラル共和党を結成したが、グラントの再選で簡単に霧消しただけだった、1870年代半ばまでに、アメリカ連合国の民族主義が死に絶えたことが明らかとなり、最も熱心は共和党員(スタルワート)は、アフリカ系アメリカ人の解放奴隷、スキャラワグおよびカーペットバッガーの南部共和党連衡が、助けようも望みもないことに合意していた。1874年は経済不況が主たる問題になっており、民主党が連邦議会の絶対的多数を獲得した。国民は共和党がいつまで軍隊を使って南部を支配できるか疑問に感じ始めた[2]1881年の政治漫画、ジェファーソン(上右)の共和制の単純さに比較して、ガーフィールドの就任の帝国主義的華麗さを攻撃している

1876年の選挙では選挙結果の集計について様々な議論を呼んだ後にラザフォード・ヘイズが大統領に当選し、南部政界の腐敗が大統領そのものの正当性を脅かしていることを示した。1877年にヘイズが南部最後の連邦軍を撤収させると、南部の共和党は忘却の彼方に沈み、連邦政府の互恵関係のかけらでのみ生き残ることになった[10]
頂点と崩壊、1890年-1896年

1880年代後半に新たな問題が持ち上がった。1888年の大統領選挙では、グロバー・クリーブランドとブルボン民主党が「歳入のためのみ」という低い関税をスローガンにして訴えたが、1890年の共和党多数の議会は高率関税と高支出を議会で通した。州のレベルでは道徳的敬虔主義者が禁酒法を強力に推進し、ある州ではドイツ系移民のための外国語学校の排除に動いた。1890年、ウィスコンシン州のベネット法では、民族文化の闘争を生んで民主党が勝利した。南北戦争後に入ってきた大量の移民は民族と宗教で党派が別れた。多くのドイツ系移民が民主党支持に動いて、民主党は1892年の選挙で多数派となることができた。ドイツ系移民の票が浮き沈みしたことや、突然人民党が興隆したことでもわかるように、党に対する忠誠心は弱くなり始めていた。軍隊式の選挙運動は、浮動票に重点を移した「教育の選挙運動」で補われる必要があった[11]

クリーブランド大統領の2期目(1893年-1897年)は大きな不況である1893年恐慌で破滅した。これは南部と西部で緩やかな連衡を図った人民党 (Populists)の訴えも効果を無くした。1894年中間選挙における共和党の大勝で、メイソン=ディクソン線より北では民主党勢力がほとんど消えた。1896年大統領選挙では、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンと急進的な銀本位制推進者が民主党を支配し、自党のクリーブランド大統領を非難し、ジェファーソンの農本主義に戻ることを要求した。ブライアンはその「金の十字架演説」で、大企業や悪徳銀行家および金本位制の餌食になっている労働者や農夫について語った。ブライアンは中西部中で1日5回なし35回の演説をこなし、世論調査では、その運動が重要な中西部におけるリードを固めていることを示していた。共和党候補者のウィリアム・マッキンリーとその参謀マーク・ハンナはその事態を把握し、その反撃は新しい広告技術を贅沢に使って教育の選挙運動を行うことだった。マッキンリーは、ブライアンの金銀複本位制(金と銀の両方を本位貨幣とする)が経済をぶち壊し、全ての人民を貧乏にすることで平等を達成するものだと警告した。マッキンリーは健全な資金と事業の信用、および製造業の豊富な高給取り職業に基づく強い経済成長を通じた繁栄を約束した。農夫は農作物を豊かな国内市場に売ることで恩恵を受けるものとされた。人種、民族および宗教のどの集団も繁栄することになり、政府は1つの集団が他方を攻撃するために使われることは無いものとされた。特にマッキンリーは、一方でブライアンのインフレで、他方では禁酒法で警告されていたドイツ系アメリカ人を安心させた。

結果としてマッキンリーが大勝したことは、都市と農場、北東部と中西部、事業家と工場労働者を組み合わせることになった。マッキンリーが人口5万人以上の大都市ほとんど全てを制したのに対し、ブライアンは南部と山岳部の田園部を制しただけだった。マッキンリーの勝利は1900年の地滑り的勝利で再確認され、20世紀アメリカ合衆国の中心イデオロギーの1つ、すなわち多元主義となった[11]
1896年の選挙運動の変化

ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは100日の間に500回以上の演説会を開くという疲れを知らぬ選挙運動で、1896年大統領選挙に関する新聞の見出しを支配した。ほとんどの新聞は彼の敵だったが、その演説が一面を飾っている限り、論説記事が何を言おうと問題では無かった。選挙の資金手当も急激に変化した。第二政党制の時代から第三政党制に入っても、選挙資金は互恵主義によって党が手配していた。公務員改革によってその手当て法が弱まり、全く新しい外部からの資金源が重要になった。マーク・ハンナは神経質になっている事業家や財務家に体系的に話しかけて、選挙に勝てる計画があること、そうすればその費用の持ち分に合わせて請求書を送ることを納得させた。ハンナは、演説士、小冊子、ポスターおよび集会のために3か月で350万ドルを遣い、ブライアンが当選した場合の運命と無政府状態について警告し、マッキンリーであれば繁栄と多元主義を提供できると訴えた。有権者は以前よりも気軽に支持党を変えるようになり、党に対する忠誠心はさらに弱くなった。自分が「独立系」であることを宣言するのも尊敬される状態になった[12]
第3政党

19世紀を通じて、禁酒党、グリーンバック党および人民党などの第3政党が、広がっていた既成政党に対する反感を集め、党派抗争よりも公共の善のために政治が行われるべきだという信念を広げた。この立場は政治イデオロギーよりも社会経験に多く基づいていたので、無党派活動は一般に地方政治レベルで有効だった。しかし、第3政党の候補者が政治の主流で自己の立場を主張しようとすると、主要政党の指導者と同盟することで、反政党の運動基盤を裏切ることになった。彼等の生んだ同盟や派閥主義が無党派支持者を落胆させ、19世紀の終わりまでに第3政党の動きを弱らせることになった。多くの改革者や無党派活動家はその後共和党を支持するようになった。これは共和党が奴隷制度反対や禁酒など、彼等にとって重要な問題を取り上げると約束したからだった[13]
第四政党制、1896年-1932年詳細は「第四政党制 (アメリカ合衆国)」を参照

1900年にも繰り返された共和党の圧倒的勝利は事業の信頼感を回復させ、繁栄の30年間を始めさせた。この期間の共和党は信頼を勝ち取り、第三政党制時代の問題と人物を一掃させた[14]。1896年から1932年の時代は第四政党制と呼ぶことが可能である。有権者集団の大半は支持政党を変えなかったが、自身を再編する者もいた。その結果、工業の発達した北東部は共和党の強い地盤になったが、進歩主義の時代には新しい考え方と政治の新しい綱領を課することも明らかだった。

選挙の資金集めに新しいルールが適用されたことに警告を受けた進歩主義者は、党のボスと実業界の腐敗した結びつきに調査と暴露(マクレイカーと呼ばれた)を始めた。新法と憲法の修正によって予備選挙を導入し、上院議員も選挙で直接選ばれるようにしたことで、当ボスの力を弱めた。ウィリアム・タフトが関税と保護問題に関して事業家寄りの保守派とあまりに馴れ合いとなった時に、セオドア・ルーズベルトはその旧友および党と袂を分かった。ルーズベルトは1912年の共和党指名大会でタフトに敗れた後、新しく「ブルムース」進歩党を起こし、自ら第3政党候補者として出馬した。選挙の結果、一般選挙でも選挙人選挙でもタフトを上回ったが(タフトは2州を獲得しただけだった)、共和党が割れたために民主党のウッドロウ・ウィルソンが当選し、事業家寄りの保守派が共和党の支配勢力になった[15]
脚注[脚注の使い方]^ James E. Campbell, "Party Systems and Realignments in the United States, 1868-2004," Social Science History Fall 2006, Vol. 30 Issue 3, pp 359-386


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