第一生命保険
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役員に博文館社長で衆議院議員大橋新太郎軍人浜口茂之助[注 1]。日本橋区新右衛門町にて営業を開始。幹部の医長に石岡繁太郎が就任[5][6][注 2]

1904年(明治37年)、支部長が矢野恒太、副支部長が石岡繁太郎、秦佐八郎となる[5]

1906年(明治39年)、日本橋区通三丁目の新社屋に本社を移転。契約者配当金の支払い開始。

1907年(明治40年)、責任準備金の積立方式を純保険料式に改定。

1921年(大正10年)、京橋「第一相互館」に本社を移転。5大生命保険の一つとなる。

1923年(大正12年)、関東大震災(震災による死亡に対し、保険金完全支払いと手続き簡易化を決定)

1932年(昭和7年)、保有契約高で業界第2位の実績。

1935年(昭和10年)、財団法人保生会を設立。

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まり、12月27日、商工省拓務省が満洲国保険業法を公布し即日施行[7]

1938年(昭和13年)、第一生命館(旧日比谷本社社屋)が完成し本社を移転。逓信省出身の石坂泰三が取締役社長に就任[8]。溝口光忠を満州国での代表者として生命保険事業許可申請[9]

1945年(昭和20年)、第一生命館が連合国軍総司令部(GHQ)庁舎として接収される。

1949年(昭和24年)、保険料月掛取扱制度を実施。

1950年(昭和25年)、保健文化賞を創設。

1952年(昭和27年)、「第一生命館」の接収が解除。

1953年(昭和28年)、大阪駅前に潜函工法を使用した第一生命ビルが竣工。地上9階(高さ49メートル)・地下3階で当時は日本一の超高層ビルとなった(設計施工は第一生命ビルディング設計監理部竹中宏平こと竹中工務店[10][11]

1963年(昭和38年)、「企業年金保険」「終身年金保険」を販売開始。

1966年(昭和41年)、「厚生年金基金保険」を販売開始。

1968年(昭和43年)、大井第一生命館が落成、大井本社(のちの大井事業所)として使用開始。

1970年(昭和54年)、矢野恒太が国際保険名誉賞受賞。

1971年(昭和46年)、「特別終生安泰保険」を販売開始。戦後のチルメル式積立の時期を経て、責任準備金の純保険料式積立を達成

1974年(昭和49年)、新制度を実施(営業組織、販売制度を大幅に改編)。クーリング・オフ制度を実施。

1976年(昭和51年)、下取り制度(転換制度)を実施。社員総代会傍聴制度、評議員会制度実施。

1977年、「悠悠保険」販売開始。

1984年(昭和59年)、第一リースを設立。

1985年(昭和60年)、第一生命投資顧問(現:アセットマネジメントOne)を設立。

1986年(昭和61年)、ディズニーキャラクターを広告宣伝に起用。第一生命カードサービスを設立。

1987年(昭和62年)、ファイナンシャル・プランニング(FP)担当制度を新設。東京ディズニーランドのアトラクション「ビッグサンダー・マウンテン」の提供開始。サラリーマン川柳コンクールを開始。

1989年(平成元年)、第一生命キャピタル(現:ネオステラ・キャピタル)を設立。

1990年(平成2年)、第一生命テレホンサービス開始。

1992年(平成4年)、生保業界初の「マッチングギフト制度」創設。府中情報センターが竣工。

1993年(平成5年)、DNタワー21(第一・農中ビル)(現:第一生命日比谷ファースト)が竣工。

1996年(平成8年)、第一ライフ損害保険を設立(2002年に安田火災海上保険、次いで2004年に損害保険ジャパンと合併)。

1997年(平成9年)、第一生命経済研究所を設立。

1998年(平成10年)、第一生命ウェルライフサポート(現:第一生命経済研究所)を設立。日本興業銀行(現: みずほフィナンシャルグループ)と全面業務提携。第一ライフ投信投資顧問が投資信託業務を開始。

1999年(平成11年)、興銀フィナンシャルテクノロジー(現:みずほ第一フィナンシャルテクノロジー)に出資。興銀第一ライフ・アセットマネジメント(現:アセットマネジメントOne)を設立。

2000年(平成12年)、安田火災海上保険(現:損害保険ジャパン)と包括業務提携。アメリカンファミリー生命保険会社と業務提携。ジャパンリアルエステイトアセットマネジメントを設立。

2001年(平成13年)、資産管理サービス信託銀行を設立。企業年金ビジネスサービスを設立。東京ディズニーシーのアトラクション「センター・オブ・ジ・アース」の提供開始。

2002年(平成14年)、第一ライフ損害保険が安田火災海上保険に合併。次いで安田火災海上保険が2004年に損害保険ジャパンと合併。

2006年(平成18年)、第一フロンティア生命保険を設立。

2007年(平成19年)12月6日、会社の形態を相互会社から株式会社に転換することを発表。第一生命ベトナムを設立。りそなホールディングスと業務提携。

2010年(平成22年)4月1日、株式会社へ移行と同時に東証一部に上場。

2011年(平成23年)、豊洲本社(豊洲キュービックガーデン)竣工。TAL Limited(TAL社)を設立。

2013年(平成25年)、イギリスの資産管理会社 Janus Capital Group Inc.(現: Janus Henderson Group plc、ジャナス・ヘンダーソン)を関連会社化。インドネシアのPT Panin Dai-ichi Life(パニン・第一ライフ)を関連会社化。

2012年(平成24年)、大井事業所を置いていた大井第一生命館を、ブルックスホールディングスに売却。相互館110タワー竣工。

2014年(平成26年)、損保ジャパン・ディー・アイ・ワイ生命保険(現:ネオファースト生命保険)を完全子会社化。米国Protective Life Corporation(プロテクティブ)の買収公表。池袋第一生命ビルディングが竣工。

2015年(平成27年)、プロテクティブを完全子会社化。北米地域統括会社DLI NORTH AMERICA INC.およびアジアパシフィック地域統括会社DLI ASIA PACIFIC PTE.LTD.の運営を開始。

2016年(平成28年)4月1日、国内生命保険事業を会社分割し持株会社化(第一生命分割準備株式会社)。10月1日、第一生命保険(初代)より国内生命保険事業を承継し、第一生命保険株式会社に商号変更[1]。かんぽ生命保険と業務提携。持株会社体制の発足。第一生命ベトナムがCSR財団 For A Better Life Fund を設立。第一生命ホールディングス株式会社に商号変更[1]

2021年(令和3年)、ジャナス・ヘンダーソン社との出資提携契約を解消。カンボジアにおける駐在員事務所の設立。在米子会社プロテクティブがUSWC社を買収。

本社ビルの歴史

1921年(大正10年)に、辰野葛西事務所の設計で建てられた東京・京橋の「第一相互館」は、地上10階(中2階を含む)建ての東京市内有数の高層建築であった。

1938年よりの本社屋である東京・日比谷の「第一生命館」は、複数の公開コンペ当選案を参考に1938年に「第一相互館の担当設計者であった辰野葛西事務所出身で、矢野から懇願され第一生命に転職した松本与作が設計し渡辺仁が補佐するという形での共同設計で建設された(「谷間の花が見えなかった時」伊藤ていじ著)。

1945年連合国軍総司令部(GHQ)庁舎として接収される(1952年に接収解除)。マッカーサーは東京に進駐した9月8日当日に、およそ40分かけて都内を車で視察し、複数あった候補の中からこのビルを選んだ。皇居を見渡すことができ、華美ではない機能的な建物がマッカーサーの目に留まったと言われている。

第一生命館では、現在でもマッカーサー総司令官室が保存されているが、現在は一般には公開されていない。後に1970年代後半、警視庁本庁舎新築に伴い仮庁舎として使用されたこともある。

1953年(昭和28年)、大阪駅前に潜函工法を使用した第一生命ビルが竣工。


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