第一次選挙法改正
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カウンティ選挙区で選出された議員は州騎士議員(英語版)(Knight of the shire)と呼ばれた。ウェールズとスコットランドのカウンティ選挙区は一人区で[注釈 3]、アイルランドとイングランドのカウンティ選挙区は二人区だったが、1826年にはコーンウォールのバラ選挙区であるグラムパウンド選挙区(英語版)の廃止に伴いヨークシャー選挙区(英語版)が四人区になった。

イングランドのバラ選挙区は場当たり的に設立されたため、ハムレット(小村)から大都市までと規模からして様々である。最初のバラは中世の州長官(英語版)により指定されたものであり、特に草創期であるエドワード1世の治世(1272年 ? 1307年)ではバラを精確に定義することが不可能だったため、どのバラや都市が議員を選出すべきかという判断は州長官ごとにバラバラであった[10]。また、これら初期に創設されたバラ選挙区の中には創設時点では大規模な集落だったものの、後に衰退した例が多く(ウィンチェルシー選挙区(英語版)、ダニッチ選挙区(英語版)など)、19世紀初までに有権者数が大幅に低下したものの引き続き議員2名を選出していた。これらの選挙区は腐敗選挙区と呼ばれる。バラ選挙区の創設権はテューダー朝までに州長官から国王に移ったが、ほとんどの国王が集落の実態を顧みず気まぐれに選挙権を創設したため、結果的にはテューダー朝の君主がイングランドで創設した70のバラ選挙区のうち、合計31選挙区が廃止された[11]。17世紀にすでに数世紀もの間廃止されていた15のバラ選挙区が再創設されたことで(うち7選挙区が1832年改革法で廃止)、問題がさらに大きくなった。そして、1661年にニューアーク選挙区(英語版)が創設された後、バラ選挙区が新設されることはなくなり、以降グラムパウンド選挙区の廃止という唯一の例外を除き不公平な区割りが1832年改革法の可決まで続いた。イングランドのバラは大半が二人区だったが、アビンドン(英語版)、バンベリー(英語版)、ヒガム・フェラーズ(英語版)、ビュードリー(英語版)、モンマス(英語版)の5選挙区とウェールズのバラ選挙区は一人区だった。また、シティ・オブ・ロンドン選挙区(英語版)とウェイマスおよびメルコム・レジス選挙区(英語版)は四人区だった。
有権者

ヘンリー6世の治世にあたる1430年と1432年に法律が制定され、カウンティ選挙区の投票権資格規定が統一された。これらの法律により、特定のカウンティにおいて40シリング以上の価値のある所有不動産(英語版)(freehold property)または土地を所有する人物はそのカウンティ選挙区で投票権を有した(いわゆる40シリング自由保有権(英語版))。しかし、40シリングという規定はインフレーションによる調整がなされず、時代が下るごとに投票権に必要な土地の面積は小さくなっていった[12]。また、有権者は男性に制限されたが、これは制定法による規定ではなく、慣習法に基づいており[13]、女性が不動産の所有者として総選挙で投票した例も稀ながら存在した[14]。いずれにしても、イギリス国民の大半に投票権がなく、イングランドのカウンティ選挙区の有権者数は1831年時点ではわずか20万人だった[15]。さらに、カウンティごとの有権者数も大きく異なっており、ラトランド選挙区(英語版)とアングルシー選挙区(英語版)では1千人未満だったがヨークシャー選挙区(英語版)では2万人以上だった[16]。選挙区に居住しているという要件が存在しなかったため、複数の選挙区で不動産を所有する人物は複数回投票する(英語版)ことができた。

一方、バラ選挙区ではカウンティ選挙区のように投票権資格規定が統一されることはなく、大まかに下記の6種類にわかれる。
自由市民(freeman)に投票権を与える選挙区。

町税(英語版)(scot and lot)を支払っている人物に限定している選挙区。

市民借地権(英語版)(burgage)に基づき資産を所有している人物に限定する選挙区。

都市団体(corporation)の成員に限定する選挙区。都市団体の成員選出がパトロン1人の「懐中」にある場合がほとんどだったため、このような選挙区はほとんどが懐中選挙区である。

男性世帯主に限定する選挙区。「世帯主」の定義を「炊事のできるかまどまたはストーブを有する一室を占有する者」としている選挙区がほとんどだったため、このような選挙区は鍋持(英語版)バラ(potwalloper borough)と呼ばれた。

土地を所有する人物に限定している選挙区。

バラ選挙区の一部ではこれらの規定を複数採用しており、また特定の選挙区でのみ適用された規定や例外も多かったため[17]、実際にはバラ選挙区の投票権資格規定は全くのバラバラである。

最も大きなバラ選挙区であるウェストミンスター選挙区(英語版)の有権者数は約1万3千人であり[3]、一方で小規模なバラ、特に腐敗選挙区では100人未満だった[18]。最も有名な腐敗選挙区はオールド・サラム選挙区(英語版)であり、この選挙区では13の市民借地権があったため必要な場合に有権者を「作る」こともできたが、一般的には6人ほどで十分とされた。それ以外の腐敗選挙区にはダニッチ選挙区(英語版)(有権者数32)、キャメルフォード選挙区(英語版)(有権者数25)、ガットン選挙区(英語版)(有権者数7)が挙げられる[19]

隣国フランスと比較すると、1831年時点のフランスの人口が3,200万で、イングランド、ウェールズ、スコットランドの合計である1,650万の約2倍だった(アイルランドでは約780万)。しかし、有権者数ではフランスが16万5千、イギリスが43万9千だった。フランスは1848年に男子普通選挙を導入した[20]
女性の選挙権

女性の選挙権がはじめてイギリスで主張されたのはジェレミー・ベンサムの『問答形式による議会改革案』(Plan of Parliamentary Reform in the form of a Catechism、1817年、ロンドン)とされた。ジェームズ・ミルは1820年の『統治論』(An Essay on Government)で「他人の関心事に含まれる事柄のみを関心事とする人物を削ることに何ら不自由はない。[...]したがって、女性もそのほとんどが父または夫に関する事柄のみを関心事としているので」、女性の選挙権を削ることはできると主張したが[21]、ウィリアム・トムソン(英語版)とアン・ホイーラー(英語版)は反論として『人類の半数を占める女性の訴え』(An Appeal of One Half the Human Race, Women, Against the Pretensions of the Other Half, Men, to Retain Them in Political, and Thence in Civil and Domestic Slavery: In Reply to Mr. Mill's Celebrated Article on Government、1825年、ロンドン)を発表した。

最終的に成立した1832年改革法では「男性の人物」(male persons)に選挙権を与えると定められたが、これは女性の投票を禁じる成文法としてははじめての例となった。これがかえって不満を呼んだため格好の攻撃対象になり、女性参政権運動が盛んになる一因となったとする意見もある[22]。1850年解釈法(英語版)では成文法において男性形(heなど)が使われた場合、特記なき限り女性も含まれる(したがってhe or sheと書かなくてもよい)としたが、1868年の裁判(判例Chorlton v. Lings [1868] 4CP 374)で女性に選挙権がないことが再確認され、1872年の裁判(判例Regina v. Harrald [1872] 7QB 361)で既婚女性が地方選挙で投票できないことが再確認された。
腐敗選挙区と選挙不正ウィリアム・ホガースの連作『選挙(英語版)』より『投票への勧誘』、1755年。1832年改革法以前の選挙活動に蔓延する不正行為を鮮明に示している。

特に有権者の少ない選挙区でよくみられる特徴であるが、1832年改革法以前の選挙区は多くがパトロンに支配されており、その「懐中」(pocket)にあるとして懐中選挙区(pocket borough)と呼ばれ、またパトロンが当選者を「指名」(nominate)できるとして指名選挙区(nomination borough)と呼ばれた。選挙区のパトロンは貴族か地主階級が多く、現地での影響力、名声、そして金銭をもって有権者を動かした。このことは郊外のカウンティ選挙区や大きな地所の近くにある小さなバラ選挙区でよくみられる現象である。貴族の一部は複数の選挙区を手中に収めており、例としては第11代ノーフォーク公爵チャールズ・ハワードが11選挙区を、初代ロンズデール伯爵ジェームズ・ラウザー(英語版)が9選挙区を支配した[23]。この状況について、作家シドニー・スミス(英語版)は1821年に「この国はラドランド公爵、ロンズデール卿(英語版)、ニューカッスル公爵ほかバラの所有者20人のものである。彼らは私たちの主人だ!」と嘆いている[24]。イギリスの議会史家トマス・オールドフィールド(英語版)が『グレートブリテンおよびアイルランドの代議士史』(Representative History of Great Britain and Ireland、1816年)で主張したところによると、イングランドおよびウェールズを代表する議員514名のうち、約370名が180人のパトロンにより選出されたという[25]。懐中選挙区を代表する議員はパトロンの命令に従って投票しなければ、次の総選挙で議席を失うとされた。

一部の選挙区では有力地主による直接支配に抵抗したものの、選挙汚職の温床となっていた。たとえば、ニュー・ショアハム選挙区(英語版)では有権者81人(有権者数の合計は約100[26])が「クリスチャン・クラブ」(Christian Club)なる組織を設立して、最も多くお金を出した人物にバラを売ったという事件が1771年に露見している[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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