第一次怪獣ブーム
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ゴジラ映画やこれらの怪獣映画に顕著なのは、観客層をそれまでの一般層から、「怪獣ブーム」の主体である低年齢層に絞っていることである[3]。「ミニラ」や「ギララ」、「バイラス」といった怪獣の名前は、少年週刊誌で懸賞公募され、命名式には多数の子供たちが招かれた。
商品展開

ブームの草分け『ウルトラQ』の番組宣伝は、大手広告代理店の宣弘社によって大々的に行われ、『ウルトラQ』に始まる怪獣ブームは日本全国を席巻していった[4]
出版界

『ウルトラQ』をはじめとするこれらの作品は、『週刊少年マガジン』など子供漫画雑誌でもこぞって採り上げられ、番組を漫画化した「怪獣漫画」というジャンルを生み出した。内田勝編集長による後押しのもと、『ウルトラマン』が週刊少年マガジンで連載された時期の同誌の売り上げは史上初の100万部を突破し、その効果は甚大なものであった[5]

出版社もタイアップ企画に積極的に動き、講談社は『ウルトラマン』、小学館は『キャプテンウルトラ』などとそれぞれの番組の独占掲載権を獲得、各社によってカラーの違った特集記事が派手に展開された。また、漫画形式とは別に、小松崎茂梶田達二南村喬之、前村教綱といった画家たちにより、それまでの「戦記イラスト」の流れを汲んだ特集として、詳細なイラストによるグラビア図解が各週刊漫画雑誌の毎号の誌面を彩った。これらの画家による絵物語形式の「図鑑」も各社はこぞって刊行し、ケイブンシャは劇中フィルムから焼いた原版から、写真主体の怪獣図鑑を発行した。

この時期に生まれたジャンルとして特筆されるのは、大伴昌司による「怪獣の内部図解」という企画だった。円谷作品を中心に、怪獣の内部構造を奔放なイメージで上記の画家たちのイラストを基に解説するこの「解剖図」は大評判となった。しかし、のちに肝心の円谷特技プロから反発を受けることとなっている。
音楽界

『ウルトラマン』の主題歌レコードがミリオンセラーとなったほか、怪獣の活躍する音源ドラマが「ソノシート」として朝日ソノラマなどから多数リリースされた。東宝や東映映画のソノシートなどでは、貴重な映画オリジナルの配役・楽曲で構成されたものも多い。
玩具・日用品

玩具市場では、それまでのブリキ人形に代わり、マルサンによってソフトビニールという新素材による安価な人形玩具が登場し、これも玩具界を席巻した。また、怪獣やヒーロー、メカを題材にした「プラモデル」も多数発売された。

遊びの現場としてはこの時代はまだまだめんこが子供たちの主流にあり、怪獣番組のキャラクターを使っためんこやブロマイドが多数発売されていた。また、「怪獣ごっこ」のアイテムとして「キャラクターお面」が登場し、ヒーローたちのお面は縁日の屋台の定番となった。

また、ブーム主体の児童たちに向け、ヒーローや怪獣のキャラクターのイラストなどをプリントした鞄、水筒、筆箱、鉛筆などの学用品、茶碗や皿、靴といった日用品に到るまで、子供のいる家庭内に怪獣が溢れ返る状況となった。

これらの商品に共通しているのは、商標登録していない「ニセモノ」が多かったことである。当時はまだ著作権意識のあいまいな時代であり、制作プロダクションも商品化ビジネスをあまり重要視していなかったのである。

1966年(昭和41年)年末から1967年(昭和42年)正月期には、凧、独楽、双六、かるたといった各種定番玩具を怪獣キャラクターが席捲した。以後、キャラクター玩具の「クリスマス・正月商戦」は業界で重要な商機となった。
アトラクション興行

怪獣を展示・実演させる「アトラクション」の先駆けは、前年1965年(昭和40年)に東京のデパート松屋屋上で行われたゴジラの実演ショーである。中島春雄本人がゴジラを演じたこのイベントの盛況ぶりは、当時撮影された8oフィルムの映像[注釈 1]で確認できる。

本格的な展示形態のイベントとしては、円谷特技プロダクション1966年(昭和41年)の3月26日から4月3日にかけて松屋館内で『ウルトラQ』怪獣を展示した『春休み子供大会 大怪獣ウルトラQの大行進』が初めてである。当初、円谷特技プロ社長の円谷英二は、大切な小道具である怪獣のぬいぐるみを見世物化するアトラクション公開に反対の立場をとっていた。『ウルトラQ』に始まる公開展示型のアトラクションショーが実現した背景には、ひとえにTBSの栫井プロデューサーによる説得があった[6]

「実演ショー」としては、満田かずほによれば、円谷特技プロそばの保育園から怪獣のぬいぐるみの貸し出し依頼があり、菓子折の返礼を受けたことが最初期の事例で、この怪獣たちの内部演技は自衛隊員などが受け持ったが、まるで人格が変わったように生き生きと動きまわる彼らを見て、ここから怪獣たちを遊園地などに貸し出すというアイディアが生まれ、「アトラクション・ショー」に発展していったという[7]。遊園地での「怪獣ショー」は、同年4月17日に多摩テックで開催された『ウルトラQ大会』が初である。

『ウルトラQ』、『ウルトラマン』では、放映局のTBSは貸出怪獣の管理は円谷特技プロに一任したが、ブームの過熱期にはTBS自らもアトラクション用の怪獣の制作を高山良策に発注するほどの盛況ぶりであった[8]。翌1967年(昭和42年)7月には松屋デパートで「ウルトラシリーズ」第三弾『キャプテンウルトラ』の「怪獣七夕祭り」がTBSの主催によって開催され、怪獣の展示に合わせ、出演者のトークショーが行われた。当時の新聞は、「アカネ隊員役の城野ゆきが子供たちに大人気で、ステージから引っ張り降ろされる騒ぎ」とその盛況ぶりを伝えている[9]

同ブーム期では、後年の「第二期ブーム」、「変身ブーム」期に見られるような過激な立ち回り、アクションというものは顕著でなく、サイン会や怪獣ショーなど子供たちとの触れ合いを主体とした展示形式のものが多い[10]
ブームの終息とその後

1967年(昭和42年)に入ると、新聞・週刊誌には各社の番組内容について「息切れ、マンネリである」などの表記が目立つこととなる。ブーム自体は1968年(昭和43年)には沈静化し、『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメ・原作漫画の人気から起こった「妖怪ブーム」や、『巨人の星』などの漫画・アニメを中心とした「スポ根ブーム」にその座を奪われていった[11]

本家の円谷特技プロも『ウルトラセブン』を放映延長しながらも1968年秋で放映終了を決定したほか、円谷英二社長は「もう怪獣の時代じゃなくなった。思い切ってやめることにして、また宇宙へ帰してやろうと思う」とスタッフに語ったという[12]

映画界もさらなる斜陽化のあおりを受け、東宝も『怪獣総進撃』を最後に大作怪獣映画の制作を中止したほか、日活や松竹も怪獣映画は制作しなくなった。しかし、大映だけは大幅に予算を低減しながらも「ガメラシリーズ」を続行して安定した動員数を稼ぎ、末期の経営を支えた。

こうして巨大怪獣番組の新規制作がほぼ途絶えた一方、テレビではブーム期の作品の再放送が重ねられ、アトラクションショーも各地で催されるなど、「火種」そのものは残っていた。この再放送による次世代ファンの獲得は、3年後の「第二次怪獣ブーム(変身ブーム)」につながっていった。
ブームを支えた裏方たち

当時、怪獣制作のノウハウは限られた技術者にしかなく、さまざまな造形者が各社に渡って過密なスケジュールの中、質の高いキャラクター作りに務めていた。
高山良策
「怪獣作りの名人」と呼ばれた前衛画家。『ウルトラQ』に始まる怪獣たちを手がけたブームの立役者。ピー・プロダクション大映などの作品にも参加。
東宝特殊美術課
戦前からの歴史を持ち、利光貞三をチーフに、東宝の特撮映画全般の造形・美術を担当。業務提携下にあった円谷特技プロには、特撮小道具や怪獣などの貸与協力も行っていた。『ウルトラQ』・『ウルトラマン』のゴメスやリトラ、ジラースなどは、井上泰幸がゴジラやラドンを改造製作したもの。
開米栄三
1966年(昭和41年)に東宝特美課を退社し、入江義夫とともに『マグマ大使』の怪獣制作に参加、のち「開米プロダクション」を設立。「ガメラシリーズ」にも参加。ガッパやギララの造形指導も行う。
大橋史典
戦前から活躍した特殊造形家の草分け。『マグマ大使』のゴアや大使、アロンなどを制作、1967年(昭和42年)には元東宝の渡辺明が参加した、「日本特撮株式会社」の社長に就任し、『怪獣王子』を製作した。
エキスプロダクション
大映の美術チーフだった八木正夫1966年(昭和41年)に設立、三上陸男前沢範、この年東宝特美課を退社した村瀬継蔵らが参加。東映、大映、東宝、円谷など、各社にわたって活躍。


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